謎のノイズ1

 耳欠けが背後に迫る赤鼻に気づいた時には既に逃げ場は無かった。
 普段なら決して犯さないミス。
 耳の欠けた右側を決して風上にはしないという鉄則を忘れるほど飢えていた。
 普段より少なかった雨が影響して大地は乾ききり草木は枯れ、草食動物たちは数
を減らした。
 それを捕食する肉食動物たちにとっても大きな影響を当然のごとく受け辺り
には草食動物、肉食動物を問わず死骸が点在している。
 赤鼻は普段なら確実に獲物を得られる距離まで近づいているが、それ以上近づく
のをためらっているように思えた。
 耳欠けには普段と違う赤鼻の行動に気付く余裕は無かった。
 2匹は互いの動きに神経を配っていた。
 緊張が我慢の限度を超えたのか赤鼻が右に少し動いた。
 それに素早く反応して耳欠けが左方向に走り出した。
 「駄目、そっちに逃げちゃ!!」
 笑子はモニターに向かって叫んだ。
 その声は1万km以上離れた彼らには決して聞こえることはない。
 にも拘らず笑子は叫び続けた。
 その時、モニターにノイズが走り画面が消えた。
 「又かよ!」
 笑子は吐き捨てるように言った。
 壁時計は深夜の2時を指している。
 力無く立ち上がった笑子は研究室を出て通路を挟んで向かいにあるリビングに入った。
 冷蔵庫から缶ビールを取り出しソファーに崩れるように座り込んだ彼女はテーブルの上にあるポテトチップを頬張りながらリングプルをプシュッと引いた。
 テレビはどのチャンネルもテレフォンッショッピングばかりなので消した。
 窓ガラスにはヤモリが、くっついて明りを目当てに集まってくる蛾を待っている。
 アルコールが胃を刺激して強い空腹感を覚えた笑子は再び立ち上がり冷凍庫から
冷凍讃岐うどんのパックを取り出して底の深い皿に移しレンジに放り込んだ。
 これは隣町の不動産屋に行った帰りに立ち寄ったドラッグストアの妙に愛想のいい
主人に体よく売りつけられた代物で家には、まだ1ダースも残っている。
 一人暮らしの笑子にとっては大変な量だ。
 冷凍食品にしては、かなりイケる味ではあるが続けてとなると2日が限度だ。
 同僚のカルロスとジョニーにも押し付けようと試食用に作って食べ方まで実演して
見せたところ「そのズルズルというのはチョット勘弁して欲しいな!」とジョニーが
本当に嫌そうな顔をして言った。
 好奇心旺盛なカルロスも「ジョニーに同感だ」と引いてしまい作戦は見事に失敗
し引き取り手は無くなった。
 「結構イケると思うんだけどな」
 笑子は少し熱すぎるうどんをフォークで食べながら呟いた。
 つゆの塩味に誘われて冷蔵庫からビールを、もう一缶取り出してグビグビやり始めた。
 腹が人心地つくと今度は強い睡魔に襲われた。
 今夜片付けなければいけない課題は山積みだが、もう3日間全く寝ていない笑子は
限界だった。
 「ボスにはどう言い訳しようか?」
 笑子は次第に遠ざかる意識のなかで今直面している課題のことを考えた。
 ふと気がつくと笑子は高校の頃に戻っていた。
 6時間目の授業が終わり家路を急ぐもの部活に向かうもの、みなそれぞれ慌しく用意をしているなかで笑子は机の上に置いたノートパソコンと睨めっこをしている。
 「スペクトルの重力による編曲率は実験結果と連動しているから間違いないし黒点
の変化も見られないから太陽風による電波障害とも考えにくいし」
 笑子は夢の中でも仕事をしていた。
 「スペクトルマ〜ン!」
 親友の和泉がモニターの陰から顔を出して言った。
 「今さ、ここの部分の微分方程式の解法を見ているんだけど単純に変数分離形で
解いちゃ駄目かな?やはりフーリエ変換かな?」
 笑子はモニターから目を離さずに言った。
 「エッ!ビビッと不倫?笑子チョー過激!!」
 和泉が悪戯っぽい顔をして言った。
 「真剣なんだから。これ今夜中に解決しないとボスに文句言われるし…。」
 「おいおい大丈夫かよ笑子、先週簿記の試験に落ちたのが、そんなにショック
なのか?今度は受かるって、先生も言っていたじゃないか気にするなよ」
 笑子はクラス全員で受けた簿記の試験のことを思い出した。
 比較的簡単な3級の試験で落ちたのは笑子だけだった。
 もう15年も昔の話だが当時の嫌な思い出が、まざまざと蘇って来た。
 「もう忘れてたのに!」
 「帰ろうぜ、スペクトルマンとの不倫は、また今度にして」
 和泉は、そう言って教室を出た。
 笑子は急に不安になり和泉の後を追った。
 夕日を背にして荒川の土手を自転車で並んで走る2人以外誰も居ない。
 「越前屋に寄って行こうゼ、いつもの通り負けたらたこ焼きセット オ・ゴ・リ
な!」
 和泉は、そう言ってペダルを踏み込む足に力を込めスピードを上げた。
 笑子は必死に和泉を追ったが全く追いつかない。
 それどころか、どんどん離れるばかりだ。
 「待ってよ!たこ焼きオゴるからさあ、いつでも一緒だって言ったじゃない」
 笑子は急に悲しくなり遠ざかる和泉に訴えた。
 しかし和泉は、どんどん遠ざかり力を緩めようとはしない。
 笑子は必死に追うが和泉は離れるばかりだ。
 深いわだちに前輪を取られ転倒した。
 「待ってよ。『いつまでも一緒だよ』って言ったじゃない!」
 右の膝小僧を強く打った笑子は立ち上がれず四つんばいになって和泉に向かい叫んだ。
 その時、誰かが肩を強く揺さぶった。
 「エイミー、エイミー!」
 遠くからカルロスの声が聞こえて来た。
 「エイミー、起きろ!」
 目の前に心配そうなカルロスの顔があった。
 「おはよう、今何時?」
 笑子は夢見心地で訊いた。
 「まだ8時だよ」
 「ええっ、8時!」
 笑子は驚いて飛び起きた。
 「もうすぐボスが来る」
 「何を怯えているんだ!奴が来たからって地球が破滅するわけじゃなし」
 「だって、何も進んでないのよ」
 「あれのことか?気にすることはないさ。現に、こんな短期間でフェーズ1を完了
したんだから感謝されても文句言われる筋合いは無い。それに奴のことをボスだなんて
呼ぶのは止せ。管理能力は無し、技術的知識はゼロ、性格は最悪で勤怠は、この通り
時間通りに出勤することもできない」
 カルロスの言うことは尤もだが笑子は彼のように冷酷にはなれない。
 「こっちのほうも、あと少しで終わるから手伝えると思うよ。現に150q上空
から地上の小動物の動きや話し声をサンプリングできるんだから大成功じゃないか!
 現に政府の、お偉方は賞賛こそすれ文句なんか一言もいってないよ。
 リッチーは上に何でもハイハイとしか言わないから上も『言えばもっとやれるんじゃ
ないか?』って要らぬ推測されるんだ。こっちだって姿勢維持装置の件で上に誤解
されて先週ワシントンの本社まで直談判に行かなきゃならなかったし。この忙しいのに、まる一日潰してだぜ。まあ今更エイミーに言わなくても分かっている事だけど」
 カルロスがそこまで言ったときジョニーがリビングに入ってきた。
 テーブルに並んだビールの空缶を見たジョニーは「朝からパーティーかい?」
と笑いながら言った。
 「エイミーは今夜も"地獄耳"と一夜を過ごしたらしいぜ」
 カルロスが悪戯っぽく言うと笑子は少し"ムッ!"とした表情で「真剣なんだから!」と言った。
 地獄耳とは笑子たちが開発しているシステムの愛称だ。
 従来のスパイ衛星とは違い前述したように地上の音声まで収集できる。
 それを可能にしたのは6年前に笑子が学位を取得する際に作成したナキウサギの生態に関する論文の中で採取した鳴声と聴覚に関するデータの比較による疑問点だった。
 ナキウサギたちは聴き取れないはずの周波数の鳴声を頻繁に使用していることに気付いた笑子は「もしかして彼らは音を聞いているのではなく見ているのでは?」と
いう大胆な仮定を立て可視光線の範囲のスペクトル、音波による大気の変化に付随して起こる可視光線の変化(笑子はかげろうのようにナキウサギには見えると考えた)を研究した。
 ところが、この研究過程で開発したスペクトル変換プログラムを同室の研究員が
犯罪組織に買収され中東の過激派に横流ししたことにより一連の連続テロの連絡用
ブログを通しての暗号プログラムへとカスタマイズして使われた。
 合衆国政府から笑子は彼らの仲間と疑われ洲刑務所に一時収監された。
 それが原因で決まっていた地元の公立高校への就職はキャンセルされファストフードの売子、農場の収穫の手伝い、ビルの清掃などを転々としている時に偶然大学の恩師に会い4年前に今の仕事を紹介してもらったのだが仕事がきついうえに上司は大の有色人種嫌いで辛い思いを続けている。
 「あれ!今日は午前中、不動産屋に行くんじゃなかったのかい?」
 ジョニーが思い出したように言った。
 先週、笑子は大家から今住んでいる1戸立ての住宅から出て行くように言われた。
 元々大家の長男がミネソタに転勤している間だけという約束で破格の家賃で借りていたので笑子には何も言えない。
 「忘れてた!できれば今日手付けを打って置かないと」
 笑子は飛び起きて言った。
 そして少し考えて「今の状況をボスに説明してからじゃないと…‥.」と弱々しく言った。
 「気にするな、行けばいい。なあジョニー?」
 「ああ、心配しなくても、この調子じゃリッチー殿下は又午後からの出社だろう」
 「でも、」笑子はボスのリッチーに成果が無かったとしても報告せずには帰れない気持ちだった。


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