笑子は既に体力の限界で再び研究を再開する体力も気力も失せていたのでリビングのソファーでまどろみながらリッチーの出社を待ったが昼を過ぎても彼は出社しない。
「もう、いい加減諦めたらどうだい?」見かねたカルロスが笑子に言った。
笑子も不動産屋の件が気になっていたので思い切って帰ることにした。
ロッカールームで革ジャンに着替えヘルメットを抱えて研究棟を出ると強い陽射しに笑子は一瞬眩暈がした。
笑子は資材倉庫の横に止めてあるバイクに跨りタンク左下にあるイグニッションにキーを差込み回した。
ニュートラルランプが点灯しない。
クラッチを切りセルボタンを押したが反応なし、バッテリー上がりだ。
原因は古くなった配線のリークだということは大方想像がついた。
「参ったなあ!」
笑子は、そう言ってため息をついた。
数秒考え込んでチョークレバーを下げティクラを押してキャブをオーバーフローさせてキックペダルを出して右足を乗せ上死点を探った。
以前無造作にキックしてケッチン(ピストンが上死点を超えることができず圧縮空気の力でクランクが逆回転すること)を食らい足を捻挫して一週間休んだことがあり慎重だ。
気合を入れ一気にキックペダルを踏み下ろしたがスカスカと情け無い音がしただけだった。
笑子は再び上死点を探りキックした。
その動作を4,5回繰り返したが反応は無い。
右足は、もうパンパンだ。
少し休み再度トライすると2回目でブスブスと湿った頼りない音を立ててエンジンが回りだした。
不完全燃焼の白煙を4本マフラーはモクモク吐き出している。
笑子はアクセルを微妙に調節しながらエンジンが温まるまで様子を見た。
アイドリングが安定するとサイドスタンドを払いギアをセカンドに入れた。
ローギアが壊れているからだ。
クラッチまで壊れるといけないので慎重に繋ぎ恐る恐る動き出した。
何も知らない人が傍で見ていると下手くそに見えるかも知れないが仕方ない。
最初の2マイルは時速60マイル程でオイルを回して一気に百マイルまで加速した。強烈な風圧は笑子の華奢な体をバイクから剥ぎ取ろうと襲い掛かる。笑子は膝でタンクをホールドし、なるべくハンドルには力を入れないように注意している。
一応舗装はされているが古いうえに大型トラックの往来も多いため路面はうねり至る所に砂が浮き時には人の頭くらいの大きさの石まで転がっているので油断ができない。
エンジンの搾り出す馬力に比べ明らかに貧弱なサスペンションは小さなギャップを拾っても車体を激しく揺らすのでハンドルに力を入れるとバイクに巴投げを食らわされ兼ねない。
目の前には大小様々なブッシュの点在する荒涼とした砂漠が地平線の彼方まで広がっている。
エンジンは、まだ10マイルくらい出せる余裕があるが限界まで搾り出し砂漠の真ん中で焼き付きでもしようものならば命取りになりかねない。
これだけ速度を上げても笑子の住むクーガータウンまでは30分掛かる。
遠くにドライブインの看板が見えてきた。プリシラの店だ。
「銀行行く前に連絡してね」という彼女の言葉を思い出した。
貸し出し係のウッドマンに金利の交渉をしてくれるとのことだった。
笑子は、ゆっくりと減速して大きな駐車場に入り入り口前にバイクを止め店に入った。
ドアを開けた笑子はカウンターのプリシラと目を合わせると微笑んだ。
プリシラは無表情に少し頭を下げた。
これはいつものことで別に機嫌が悪いわけではない。
昼食時を少し外れた店内にはトラックの運転手が2,3人いるだけだ。
カウンターに座った笑子にプリシラが相変わらず無表情にコーヒーの入ったマグカップを差し出した。
「ありがとう」
笑子はマグカップを手に取り、そう言って口をつけた。
「昨日リッチーが来たのよ」
プリシラが不機嫌そうに言った。
リッチーは彼女に気が有るらしく良く店に来てはカウンターに座り何かと話し掛ける。
プリシラも客であるリッチーを無碍にもできず適当に相槌を打っているが本心は嫌で仕方がない。
そして笑子はいつもプリシラから、その報告(愚痴というべきか)を聞かされる。
学生時代からの付き合いだから、もう10年以上になる仲なので、お互い遠慮は無い。
「また迫られたの?」
「それが変なの」
「嫌われた?」
「それならいいけど。店に入るなり窓側の席に座って外ばかり気にして」
「誰かと会う約束でも有ったんじゃないの?」
「そんな、あいつに会うような友達が居るわけ無いじゃないの」
笑子は当たっているだけに言い返す言葉が無かった。
「そうそう、家の件どうなった?」
プリシラから切り出した。
「その件なんだけど今からレインボータウンに行こうと思っているの」
「分かったわ、ちょっと待って!」
プリシラは、そう言ってポケットから携帯を取り出して銀行に電話を掛けた。
「今すぐよ、せっかくエイミーに来てもらって待たせてるのよ!」
プリシラは有無を言わさずたたみ掛ける。
「10分くらいで来るって」
携帯をポケットに仕舞い込みながらプリシラが言った。
貸し出し係のウッズマンもプリシラに入れ込んでいる1人だ。
ラテン系のパッチリとした目に端正な顔立ちで、ちょっと小柄な彼女に思いを寄せる男たちは少なくないのだが当の本人は鈍感というか近づいてくる彼らを皆良い人と感じている程度だ。
本当に10分で来たウッズマンと早速交渉が始まった。
「物件を見ないと融資額と利率は申し上げられないんですが話を伺ったところでは80%で年利8%といったところでしょうか」
ウッズマンは資料を広げながら言った。
「8割って9万ドルしか融資しないの?残りの2万4千ドルをどう工面しろと言うのよ!」
プリシラがカウンター越しに言った。
「特に、これといった資産や預金もないし、これだって目一杯なんだよ」
ウッズマンは懇願するように言った。
「私の面子を潰す訳ね!エイミーは学生の頃から、うちでバイトして、もうかれこれ10年以上の付き合いなんだから。その彼女を紹介するからには中途半端は認められないわ」
プリシラは突き放すように言った。
ウッズマンの横に座る笑子はプリシラの余りにも強気な態度に少々気後れしていた。
「分かったよ、残りの2万4千ドルはオートローンに割り振るから」
「えっ!オートローン?あれって金利が10%でしょ。ダメダメ!全額住宅ローンで出しなさい」
「でも、そうなると別に保証人を付けないと」
「なに、そんな事?うちじゃ不足?なんなら貸し出し金額分と同額の預金分増額しても良いわよ。パパが運転資金用に買いためた国債がそれくらい有るわ」
笑子は恐縮してしまい「なにも、そこまで」と言った。
「分かりました。全額融資ということで、後で保証人の書類持って来るから宜しく」
ウッズマンは額に汗をかきながら言った。
「それと8%って取り過ぎじゃない?どう考えたって4%がいいとこだと思うけど」
プリシラの言葉にウッズマンの顔色は真っ青になった。
「それは…」
「分かったわ。エイミー、それ全額うちで立替えてあげるわ。ウッズマンさん来月予定している店内改装の件、来年に先送りね!別に差し当たって全然問題ないけど『どうしても』ってウッズマンさんが言うから決めたけど」
ウッズマンの顔色は一層蒼ざめた。
プリシラが言っているのは、この店の事ではない。彼女の弟がクーガータウンで経営するショッピングセンターの事だ。
先月ウッズマンが、この店で昼食を取っている時漏らした「今月成績が悪いんだよね」という一言にプリシラが「分かったわ弟に掛け合ってあげる」と決めた商談である。
(プリシラ自身結構いい人である)
「どう工面しても6%が限界で…」
ウッズマンが小さな声で言った。
それでも2千4百ドルの浮きであるから大きい。
「ちょっと待って!これってまさか複利じゃないでしょうね?」
プリシラが突っ込んだ。
「そうだよ」
ウッズマンがさも当然といったように言った。
「冗談じゃないわ!6%複利で10年払ったら元金と同額の利息になるじゃないの!」
プリシラの強烈なプッシュで金利は7%単利で15年払いという破格の条件で契約できた。
笑子はウッズマンの作成した融資に関する契約書を受け取ると早速レインボータウンの
不動産屋に向かうコとにした。
まだ熱いエンジンはセル一発で始動した。
笑子は今来た道を引き返した。
レインボータウンは笑子が勤める研究所の向こう側になる。
プリシラの店から丁度百マイルの所にある。
時速百マイル1時間の小旅行の始まりである。
地平線の向こうにはハンフリーズ山が見える。
目の前をミチバシリが横切り笑子は一瞬”ヒヤッ!”とした。
この辺りには他にガラガラヘビ、コヨーテなんかもいる。
先週も道に横たわるガラガラヘビを轢いたライダーが転倒して死亡した。
研究所を過ぎたところで笑子はブレて良く見えないバックミラー(アメリカではリア・ビュー・ミラーという)に誰かがパッシングする光が反射して写った。
「嘘でしょ!」笑子は思わず呟いた。
次の瞬間笑子は背中を強く引っ張られるのを感じた。
それに伴い速度が一挙に10マイル落ちた。
スリップストリームに付かれたのだ。
何者かは分からないが可なりのテクニックの持ち主であることには違いない。
また再び背中が軽くなったと思ったら真横に並んだ相手は白バイだった。
難なく笑子の前に出た白バイは笑子を制止するでもなく、まるでツーリングを楽しむように
悠々と前を走っている。前方にドラッグストアが見えてくると白バイは左手で笑子に停止を求める合図をした。
砂漠の真ん中では先ほど述べたように毒ヘビや猛獣の被害を蒙る可能性があるので良くこういう場所まで誘導することがある。
駐車場に白バイを止めヘルメットを脱いだ警官はブロンドのショートヘアーの似合う女性だった。
「こんな田舎にも結構クレイジーな奴が居ると思ったら女かよ。しかも中国人ときている」
彼女は笑子に向かって言った。
「私日本人よ。ニッポン・ジン!」
「ボンジュール?フランス人かよ」
「ジャパン!ソニー、トヨタ、スシ、ドゥ・ユー・ノウ?」
「なに言ってんだ!ソニーはイギリスだろ?」
笑子は思わず吹き出した。
「それにしてもよ、CB750Four初期タイプだろ?こんな無茶しちゃダメだぜ。ショップに持って行けば、そのコンディションなら1万ドルはいくぜ」
彼女はエンジンを覗き込みながら言った。
「えっ!嘘でしょ?」
このバイクは今借りている家の納屋で見つけたものだった。
大家に尋ねると以前旦那が知人から借金のかたに譲り受けたらしいのだが特に興味が無かったので、そのままにしていたらしい。
笑子もそれまで通勤に使っていたカワサキのニンジャ(これは以前カルロスが乗っていたものを安く譲ってもらった)が盗まれたので思い切って大家に申し出たら「あげるよ」とのことだった。だから笑子も、そんなに値打ちのあるものだとは思ってはいなかった。
「オレ、ベティ。昨日からレインボータウンに配属になったんだ宜しく」
「私エミコ、こちらこそ。今クーガーシティに住んでるんだけど来週頭にはレインボータウンに引越すわ」
4,5分話をするとベティが「オレ忙しいから」と突然切り上げて去って行った。
「変なの!」笑子は妙に可笑しくなり吹きだした。
不動産屋で契約を済ますと笑子は新居となる住宅を見に行った。
メイイストリートから2ブロック離れた静かな場所に少々手狭な木造平屋建ての古い住宅がそうだ。庭は手入れされておらず雑草が伸び放題で壁板のペンキは所々色が剥げている。
でも家具類は結構良いものが揃っておりエアコンと冷蔵庫は新品で未使用だ。
それにバスルームが広い。
笑子は不動産屋で受け取った鍵で中に入るとリビングにあるフカフカのソファーに倒れこんだ。
南向きの窓から射し込む暖かい陽射しに笑子はつい寝込んでしまった。
それから、どのくらい寝込んだかは分からないが笑子が外の喧騒によって目覚まされた時には外は、すっかり暗くなっていた。。
誰かが大勢家の前で何か騒いでいるようだ。
パトカーだろうか、無線で何か話す声が複数聞こえている。
「なんだろう?」
笑子は窓から外を覗いた。
外にはパトカーが3台止まっていた。
昼間の白バイ警官の姿も見えた。
彼女は見覚えのある中年の男性としきりに何か話している。
それは笑子に大量の”さぬきうどん”を売りつけたドラッグストアの主人だ。
その時笑子の革ジャンの内ポケットにある携帯がブルブル震えた。
カルロスからだった。
「やっと繋がった、今どこだ?」
カルロスは荒々しく言った。
「レインボータウンの新居よ午後契約して、そっちに帰るつもりだったけど寝込んじゃった!」
笑子は言い訳がましく言った。
恐らくリッチーが出社して来て昨夜の報告について煩かったのだろう。
「もしなんなら今から戻ろうか?」
笑子は申し訳なさそうに言った。
「いいか?良く聞け。今からすぐ近くの警察署に駆け込め。今すぐにだぞ!もし近くに
パトカーとか警官の姿を見たら直ぐに保護してもらえ。分かったな」
「はあ?」
笑子はカルロスの言う意味が理解できなかった。
「リッチーが殺された」
「誰が殺されたって?」
「リッチーだよ。午後警察に匿名の電話があって駆けつけると殺されていたらしい」
笑子はカルロスの指示に従い出口に立った時誰かがドアをノックした。
例の白バイ警官ベティだった。
「お前エミコ・カワムラか?」
ベティが尋ねた。
「そうだけど」
笑子が応えるとベティは「見つけたー!」と警官たちに向かって叫んだ。
「私は署長のレイナードです。確か以前うちの店で、お会いしましたよね」
例のドラッグストアの主人がパトカーを運転しながら言った。
「クーガーシティの警察署からエミコ・カワムラという女性科学者が行方不明だから探して欲しいって連絡があってよ。昼会ったとき、お前が確か『エミコ』とか言ってただろ?だから、こっちでも探しているとき、ここでCB見つけたから手分けして探そうとしたところだったんだ」ベティが言った。
4ブロック先の警察署でタカハシと名乗る東洋人に会った。
「リッチーは我々の仲間でしたが、どうやら犯罪組織とも繋がっていたようです。これはリッチーの家の留守番電話に録音されていた留守録です」
タカハシは携帯レコーダーを取り出しながら言った。
「そうそう、彼はCIAのエージェントだ」
レイナード署長が言った。
「自らCIAのエージェントと名乗るのも随分変だけどな」
ベティが言った。
「ミス・カワムラにとってはCIAという言葉は非常に複雑な意味を持っておられるとは思いますが」
タカハシの言葉に笑子は5年前の辛い記憶を思い出した。
「早速ですが、ミス・カワムラには日本に向かってもらいます」
タカハシが切り出した。
「えっ?でも私仕事もあるし…、困ります」
余りにも突然の話で咄嗟に出た言葉は、それだけだった。
「申し訳ありませんが、これは合衆国政府としての指示だと思ってください。決して悪いようにはしませんから今すぐ向かってください」
タカハシは有無を言わせぬ強い口調で言った。
「あのそれじゃ、着替えとか取りに帰らせてください」
笑子が言うとベティが暗い表情で「あのよ、言い辛いけど、お前の家もう無いぜ」と言った。
「そんな、契約は来週一杯だし家賃もしっかり払っているから追い出されることは有り得ないわ!」笑子が抗議した。
「いや、そうじゃなくて家が爆破されたんだよ。犯人は”ガイア”の連中だ。さっき逮捕された」レイナード署長が言った。
「隣の大家さんの家も吹き飛ぶくらい強烈なロケット弾で跡形も無く吹き飛ばされていたよ。大家さん夫妻も病院で先ほど死亡が確認されたよ」タカハシが淡々とした表情で言った。
引導を渡された笑子は抵抗する術を失いタカハシの指示されるまま警察署横の高校のグラウンドに降りてきた軍用ヘリに乗り込みヘンダーソン基地に向かった。
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