第一章



「僕の一番欲しいものは、舟です。母なる大地、あのアフリカ大陸まで行けるような、大きな舟です。」

(和音の『日記』より)





 一九四四年五月、和音(わおん)は、冷たい雨のしずく一滴が、瞼に当たるのを感じて目を覚ました。「ゴーッ」という音を感じながら、それが外からの音ではなく、内からの音だということに気が付くには、少し時間がかかった。隣で眠っている母の目が白かった。白い目を開けたまま、母は永遠に眠っていた。雨と血で、いつも以上に黒くなった髪の毛が、真空の様な空気の中に絡み付いていた。ただその右手は、和音の胸を覆い、最後まで彼の身体を無力にも守ろうとしていた。赤い血液で塗られ、固まってしまっているその手から這い出る力はすでになく、和音は最後のエネルギーを出し尽くしてもなお、無声の叫びと共に泣き続けた。
「……………………」
 誰も和音の泣き声に気の付く者はいなかった。なぜなら、和音の声は、もう声ではなく、雨音に掻き消されるまでもない、無音だった。耳は、もうなかった。腐ったハムのようにちぎれた両耳が、瓦礫と一緒に置かれていた。しかし、そんなことを気にする余裕はなく、ただ泣き続けた。黒い空と、黒い雨と、黒い雑音が、和音を呪縛していた。頭の上には、姉が死んでいた。和音はこの空襲によって、母と姉と、声と音を奪われた。

 母子家庭にいた和音は、その時十一歳で、母と姉との三人家族であった。父は「お国」のために戦死し、空襲で家族を失った和音にとって、二親等以内の身内はもういなかった。集団疎開が始まった六月、和音は父方の叔母である、広島県の進藤の家へ預けられた。父は元々広島県の生まれであったが、結婚し、東京に婿養子として上京した。親戚は進藤家だけであったが、ほとんど親戚らしい付き合いはなかった。
「あの女と結婚さえしなければ、兄は死なずに済んだかもしれない。」
 進藤の家にとって、和音の居候は正直言って迷惑千番であった。声を出すことが出来なく、耳の聞こえなくなった和音は、家の中でも外でも、「役立たず」とか「耳なし呆一」などと罵られ、いじめられた。しかし、このことは物語の上でさほど重要ではないので割愛する。
 そんな和音にとっての楽しみは、日記を付けることと、近くにあった『さくら動物園』に行くことであった。五感の内、声と耳を使わずにコミュニケーションのとることができる動物に、和音は強く惹かれていた。特に、アフリカ象が好きだった。

 和音という名前は、唄が好きだった母が付けたもので、当時としてはハイカラであった。しかし、声を出せず、耳の聞こえないその時の和音にとって、その音楽的な名前は、母が遺してくれた遺産という意味以外には、重圧でしかなかった。
「人間とはいつも不協和音。唯一和音のとれるのは、エレフだけだ。」
と、いつも彼は思っていた。
 「エレフ」とは和音の大好きなアフリカ象の名前である。軍服を着た動物園の係員が、いつもそう呼んでいた。しかし、和音は耳が聞こえないので、象の名前がエレフだということを、その時彼が知っていたかどうかは、分からない。従って、和音の思ったことなどは、彼の書いた日記からの想像である場合が多い。

 エレフは、メスのアフリカ象である。数年前、象を信仰の対象とするある宗教団体が、密輸入業者からインド象だと聞かされ、保護する目的で飼ったのだが、アフリカのそれと知り、ここの動物園に売り渡した。動物園にとってただ唯一匹の象は、子供達にとどまらず、動物を見にくるすべての人にとって人気者であった。人気者であるもう一つの理由は、エレフが曲芸をすることにあった。愛嬌のあるその曲芸を見た見物人の中には、幾ばくかの施しを、象の檻の前にあるブリキの空き箱に投げ入れる者もあった。少なからず、このお金が大食のアフリカ象を動物園が養っていける所以でもあった。
 八月のある土曜日、いつものように午後九時半過ぎになると、和音はこっそり家を抜け出した。歩いて七、八分のところにある動物園の裏側に着いた。昼間は結構賑わっているが、この時間だとひっそりと静まり返っている。昼でも夜中でも、和音にとって音という音は無であるが、時折、涼しげな風が和音の頬をなでる感覚は、確かに彼に静寂を告げてくれる。和音はこの静寂が好きだった。多数の人に囲まれて感じる孤独より、暗闇に一人たたずむ孤独の方が、楽だからだ。しかし、本当の暗闇に一人で居続けるのなら、誰しもがらを滅するであろう。和音はその時、本当の暗闇にはいなかった。もう少しで唯一の友達であるアフリカ象のところへ行けるからだ。柵を超え、象のいる檻の方向へ向かう。これからの三十分間位、ただ和音はエレフの檻の前に座り、エレフと心を通じ合わせる。そう思い込むことで、和音にとっての世界は安らいでいく。いや、確かに通じ合っていた。たと例えれば、彼らは、風のようなオーラ気の五線譜の上に、意思と意思とのメロディ和音を奏でていた。この世界で最も美しく、純粋で気高い、無音の和音(メロディ)を。

 ふと檻の左側を見ると、檻の扉が少し開いていた。人間が一人通ることのできるくらいの扉だった。和音はそこに歩み寄り、一度その扉を閉めた。しかし、取っ手を握ったまま、和音の心は高ぶった。扉を開き、檻の中に入ってみる。恐怖心はまった全くない。ぬくもりが欲しかった。手のひらから伝わる温かさを求め、和音はそっとエレフに近づいた。体を下ろしていたエレフは、地面に置いた顔を動かさずに、和音の動きを追う愛らしい黒目がちな瞳は優しく、そのまま彼が近づいてくるのをすでに受け入れていた。
 和音は手を伸ばした。厚い皮に覆われたエレフの顔にふ触れた。エレフの肌は、思ったより硬かったが、何よりも軟らかかった。そして何よりも温かかった。和音は手のひらに、全身から滲み出る愛情を集中させ、ゆっくりと、何度か、エレフの肌をすべ滑らせた。エレフは和音に顔を擦り付け、和音はその大きな顔を、できる限り両手を広げて抱き締めた。
「驚いたね。」
扉の方で声がした。エレフはその声に反応し、その声の方に顔を向けた。
「おや、こりゃまた驚いた。」
飼育員の木陰創造(きかげそうぞう)が立っていた。
「エレフや、お前、わしがいることに気が付かなかったんか。」
和音もまた、エレフの反応に気付き、扉の方を見た。そこに人が立っていることにびっくりした和音は、一瞬逃げようかと思ったが、体が動かなかった。
「そうビクビクせんでもいいよ。いつもお前がこの動物園に忍び込んでいるのは知っておったから。今日は、この扉の鍵締めを忘れたことにきづ気付いてな。まさか檻の中にまで入るとは思わなかったやな。しかしなぁ。ほんとに驚いた。このエレフはな、わし以外の人間には懐かなかったんだが……。そうだ、おめえよ、ちとエレフの方を向いて右手を上に…。いやいや、すまんすまん、つい、いつもの癖がな。」
そう言うと木陰は、和音に歩み寄った。和音は怖くて後ずさった。無断で動物園に侵入した自分を、その老人が叱っているのかと思ったからだ。
「おい、どうした? 怖がらなくってもいいって…。そうだ、おめえに頼みてえ事がある。あのな…」
そこまで言った木陰は息を呑んだ。これで今日驚くのは三度目だ。少年の顔は、まるでお面を被っているようにのっぺりとして見えた。薄蒼い檻の中の場景と、毬栗の様に刈られている和音の坊主頭が、耳の無いその少年の面の影を、尚一層不気味に映らせていた。
「……驚いたね。…そうか、おめえ…。」
(耳が聞こえねえのか。)と木陰は言い掛けたがやめた。
「わりいな。暗くてよく分からなかったんだ。」
和音はまだ怖がっている。木陰は中腰になろうとしたが、腰痛で無理だったので、その場にしゃがみ込み、目線を少年に合わせた。そして、ポケットからチョコレートを取り出し、
「ほれ、食うか。食えよ。ヤンキーみてえに上から投げたりしねえよ、おらは。」
と言い和音に手渡そうとしていた。優しい顔をしている。近くで見た老人の顔は、和音にとってそういう印象だった。気を許した和音は、老人の側に歩み寄り、ゆっくりと、
(ア・リ・ガ・ト・オ)
と口を大きく開きながら、一つ一つの文字をしっかりと表現した。攣られて目までも大きく見開いた、哀れむべき少年の無垢な表情を見た木陰は、彼が声までも失っていることを初めて理解した。
そして木陰も同じ方法で、
(ド・オ・イ・タ・シ・マ・シ・テ)
という言葉を送った。

 木陰創造は、この動物園で飼育員をやりながら、園の端にある小屋で暮らしている。また、昼間にはエレフと一緒に曲芸をする、いわゆる「象使い」である。和音も一度だけ、野菜を売って得たなけなしの金で、昼間に動物園に来た時、エレフの曲芸を見たことはあったが、この老人のことは覚えていなかった。
(君に頼みたいことがある。この象のことだ。今日はもう遅いから、ご両親も心配するだろう。もし良かったら、明日の昼間に私の小屋に来て欲しい。とりあえず、小屋の場所を案内しよう。)
ということを、和音にも分かるように、木陰は地面に指で書いた。
(すぐそこだよ)という意味で、十メーターほど南にある小屋を指差し、和音の手を取った。和音はエレフに片手を振り、木陰の後に続いて檻を出た。

 二人並んで、小屋に向かう途中、和音の愛苦しい坊主頭を見下ろしながら、木陰は、
『ああ、さっき(ド・オ・イ・タ・シ・マ・シ・テ)の後に、(イ・イ・コ・ダ・ネ)と付け加えるべきだった。』
と後悔した。





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