第二章


「あれ以来、僕は初めて泣きました。その人は言葉の花束をくれました。与えてくれるたびに、一つずつ、一つずつ、花を添え加えてくれたのです。最後の花束は、僕の名前でした。その時、僕は初めて温かい涙を知ったのです。」

(和音の『日記』より)





 昨日はあまり眠れなかった。東京での空襲以来、初めて優しさというものに触れた気がした。野菜売りの途中、さくら動物園の横を通った和音は、木陰の小屋へ向かった。戸をノックするとすぐに、木陰は出て来た。
「よお、早かったな。ちょうどいいところへ来た。さあ、入った入った。」
そう言うと、木陰は昼飯を用意してくれた。
(ア・リ・ガ・ト・オ)
そう表現すると和音は空かせた腹を満たすために、元気に箸を動かした。
(ド・オ・イ・タ・シ・マ・シ・テ。 イ・イ・コ・ダ・ネ)
残念ながら、その言葉は、黙々と喰らいついている和音には届かなかった。しかし、『いい子だね』と付け加えることを忘れなかった木陰は、満足そうに微笑んだいた。

 食事が終わると、木陰は、
「おめえ、何て名だ?」
と言いながら、筆を動かした。和音は、木陰の書いた文の横に、『和音』と書いた。
『ワオン? カズネ?』
『ワオン』
と、こんな風に二人の会話は、紙面上で成り立っていた。
とりあえず木陰は、重たそうな袋を持って、和音をエレフの檻に連れて行った。檻に入る前に、
『象の前に立って、右手を上げ、くるくる回してみてくれ。』
木陰は和音にこう伝えると、自分でその動きをやって見せた。和音は言われた通りに行動した。するとエレフはその大きな体を立たせ、鼻をピンと伸ばした。和音はかなり驚いたが、これは曲芸なのだと悟ると、もう一度エレフに合図を送った。エレフはもう一度、曲芸をやって見せた。
「成功だ。」
木陰は自分でも信じられないほど冷静だった。もう、驚くことに慣れていたのかもしれない。
「よし、エレフが曲芸をした後は、これを忘れずにな。」
木陰は持って来た袋の中から、赤々しい林檎を取り出し、和音に手渡した。エレフへのご褒美である。和音がエレフの口元に林檎を運ぶと、エレフはうれしそうに鼻でそれを掴み、口の中にもっていった。
 気が付くと、その場で木陰は、和音に他のいくつかの象使いの合図を教えていた。すべての合図をエレフと和音はやってのけた。小屋に戻ると、木陰は再び筆を取った。
『頼みというのは…』
 木陰は、以前から自分の代わりにエレフの飼育員と曲芸の仕事を任せられる人間を探していた。ある事情で、できるだけ近い内に、どうしても、一月ほどフィリピンに行かねばならなかった。学校が夏休みの間、それを和音に任せたいというのだ。和音は、もう学校へは行っていなかった。しかし、そのことは木陰に伝える必要はないと思った。それよりも、
(でも、叔母さんが…。)
叔母の福子(ふくこ)が許すはずがない。
『それは任せておけ。問題はお前にその気があるかどうかだ。』
もちろん和音にとっては、そんなにうれしいことはない。しかし、どう考えても、あの叔母が許すはずがないと、思わざるを得なかった。
『今から叔母さんに会いに行こう。着替えてくるから待ってな。』
そう言うと、木陰はチョコレートを和音に渡した。和音は、叔母のことが気になって仕方がなかった。その時食べたチョコレートは、あまり味がしなかった。

 木陰は和音を連れて、和音の住んでいる進藤の家に向かった。和音の足は重かった。その足を地面に落とすたびに、数時間前の、木陰の小屋に向かっていた時の足の軽さが、もう懐かしかった。和音の愛苦しい坊主頭を見下ろしながら、木陰は、
『ああ、さっき(イ・イ・コ・ダ・ネ)の後に(ワ・オ・ン)と付け加えるべきだった。』
と後悔した。





「突然、申し訳ありません。私、そこのさくら動物園で飼育員をしているものですが。実は…。」
木陰と福子はしばらく話をしていた。話といっても、木陰が一方的に話しているように和音には見えた。

話が終わったようだ。木陰は微笑んでいた。しかし、和音は木陰の顔を見ることができなかった。答えを知ることが怖かったのだ。木陰は、指で『OKサイン』を出した。和音は信じられなかった。よくあの叔母が許してくれたものだ。うれしさが込み上げた。たとえ一月でも、周りに気を使わずに、あのアフリカ象と一緒にいられる。そう思うと、和音に笑顔が戻った。その時、木陰の後ろにいた福子が口走った。
「いっそのこと、もう戻って来なくていいくらいですよ。この子とは一応血のつながりはあるけど、はっきり言って邪魔なんです。ま、一月の間、野菜売りよりはいい金になりそうだからね。だけど、何が楽しくて飼育員なんか……。あら、ごめんなさい、木陰さん、別にあなたのお仕事をどうこう言うつもりはないのですがね。……なんだよ、その目は。お前の好きな動物園に行かせてやるっていうのに、『ありがとう』くらい言えないのかい。ま、どうせ聞こえないから好き放題言わせてもらっているんですよ。」
もちろん和音には聞こえなかった。しかし、それまであくまでも腰の低
かった木陰は、形相を一変させた。
「何ですと?」
もちろん木陰は、自分の仕事について言われたことに怒りを示したのではない。
「それでも人間ですか! 人間の…人間の……だいたいこの子は『ありがとう、ありがとう』って言っているはずだよ。おめえが、おめえがこの子に目を向けてねえだけじゃねえのか!」
「まぁ、何なの、急にこの人! 出て行って下さい。冗談じゃないわよ。」
その一部始終を見ていた和音には、大体のことは分かっていた。東京の空襲以来、誰も自分の名前さえ呼んでくれたことはない。血のつながった、叔母や一緒に住んでいる従兄妹達でさえも、いつも和音を呼ぶ時は、「おい。」とか、物を投げて呼んだりする。和音は耳が聞こえない。だから、誰が何を言っているのかは分からない。それでも、目を見ると分かる。その人が自分の敵か味方か、あるいは無関心なのか。例えば、今の木陰の、真剣で哀しみのこもった目は、守るべき何かのために、自らの意思を相手にぶつけようとしている。福子の、冷淡で何かを偽っているような目は、相手の意思を吸収することを避け、熱さも冷たさもない。そんなことを瞬間的に分析しながら二人の目を見ていた和音は、あの瞳を思い起こしていた…。エレフの瞳を…。
(あの瞳の中に還りたい。僕の精神を置いておきたいところは、あの瞳の中だ)
 木陰は、和音の手を取ると、進藤の家を後にした。小屋までの路上で、木陰の脳裏には苦悩の波が打ち寄せていた。
(この子はいつもあんな環境にいるのか。きっとこの子が耳なしだからといって、平気でこの子の前でひどいことを言っているのだろう。でも、
この子は気付いているのだろう。この子の目は、実に子供らしくなく、もう何かをあきらめてしまっているかのようだ…。)
 そんなことを考えている内に、小屋の前に着いた。木陰は、
「おじいさんと一緒に、フィリピンに行くか? そこにいる、おじいさんの……」
と、そう伝えようと思って、左の手のひらを、和音の頭に乗せた。と同時に、和音が木陰の顔を見上げて、こう言った。
(ア・リ・ガ・ト・オ)
木陰の目には、一瞬にして大粒の涙が形成された。木陰は和音との視線を一定に保ちながら、腰の痛みを忘れ、中腰になり、震えた声でこう表現した。
(ド・オ・イ・タ・シ・マ・シ・テ。イ・イ・コ・ダ・ネ。ワ・オ・ン)
和音の瞳にも、一筋の水の辿る軌跡が形成され、頬のあたりから銀色に透き通った、光る小さな球体がゆっくりと浸っていた。木陰は、すべての後悔が消え去っていく過程でその安らぎに沈みながら、和音の瞳に、エレフの瞳を重ねていた。





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