第三章


「僕の腕をあげよう。すぐそこにある木の実を採ってあげることのできない、罪深きこの腕を、せめて食べて欲しい。君を守ることのできない僕たちの未来を、どうか喰い尽くして欲しい。」

(和音の『日記』より)





 木陰創造が自殺したという報告が、さくら動物園に届いたのは、和音が飼育員を任されてから、九日目のことであった。なぜ彼が自殺したのかは、ここでは触れない。触れたくもない。ただ、彼の名誉にかけて、その自殺が彼本位の身勝手なものではないという事実だけは、記しておかねばならない。その自殺は、戦争の産物であり、戦争という概念を擬人化するなら、戦争による他殺であったと私は断言する。
 和音に木陰の死が知らされたのは、夏休みが終わろうとする頃だった。和音はもう会えない木陰のことを想い嘆き、ある一つの悟りを開いた。
(僕の名前を呼んでくれる人は、みんな死んでしまう。もう誰にも僕の名前なんか呼んで欲しくない)

 自殺という事実を和音に教えなかったのは、そこで働く大人達の、和音に対する思いやりである。と言いたいところだが、そうではなかった。耳の聞こえない和音にそう伝えるのが、面倒だったからだ。そういう人間に囲まれて、和音は飼育員小屋で暮らしていた。しかし、彼は大丈夫だった。エレフがいつも側にいたから…。
 エレフの鼻を枕にして一晩過ごすこともあった。エレフに触れ、エレフと曲芸をし、その褒美に林檎やバナナを与える。エレフは和音に、ぬくもりと常時安堵感を与えていた。まるで精神安定剤の様に。
 和音はエレフと共に、一つのある曲芸を新開発したりもした。その曲芸は、たいへんお客に受けた。和音が合図をすると、まずエレフは立ち上がる。立ち上がったエレフは、鼻を波型にし、前足を伸ばす。そこに和音が直径二十五寸の輪っかをいくつも投げ入れるという、いわゆる象の『輪投げ』だ。これにより、動物園の客数も増えたくらいだ。さくら動物園の園長は、木陰のいない今、和音に飼育員と象使いの仕事を引き継いでもらいたいと言ってきた。和音は、すでに進藤の家に戻るつもりはなかった。木陰が還って来たら、一緒に仕事をやらせて欲しいと頼むつもりでもいた。和音には引継ぎの件を断る理由もなく、すぐに引き受けた。毎日エレフと一緒にいられた和音は、幸せだった。彼らの関係は、象と人間という関係を超え、もちろん主従関係でもなく、まさに横のつながりであった。お互いがお互いに「母」を感じていた。

 それから九ヶ月がたった。その頃になると、戦火は広範囲に広がり、東京だけでなく当時日本でも有数の大都市を多く持っていた広島県は、米軍の空襲攻撃の対象に入っていた。政府は緊急に備え、ある条例を各大都市保有都道府県に対して通達した。通称『動物園封鎖条例』である。これは、空襲によって動物園が攻撃された場合、檻が壊れ、獰猛な動物達が逃げ出して暴れることを危惧して、立法化されたものである。しかし、その命令は、封鎖だけにとどまるものではなかった。
広島市役所の市長室で、市長と環境本部課長の本多(ほんだ)とが話していた。
「……では次に市長、問題の例の動物園の件ですが、どう措置いたしましょうか。」
「問題? どんな問題があるのだ。政府の通達どおりに実行するしかないだろう。」
「ええ、虎やライオンなどの中型肉食動物に関しましては、政府の通達どおり、射殺という……しかし、あそこには象がいますもので、象となりますと、広島市内及び周辺の地域にも他に例がなく…」
「なあ、君、環境課の課長だろう。私はそれどころではないんだよ。この戦時下にね、人間の管理だけで精一杯だからね。とりあえず早急にそこの動物園の責任者と面会して、んー、結果を出して、報告してくれたまえ。この件に関しては、私はその報告を上に伝達するだけだ。…全く、まずいよ、君。今日もこんなに晴れている。ああ、曇れ、曇れ…。」

 本多は早速、さくら動物園の園長宅に出向いた。
「園長、早速ですが、内閣条例、通達番号五三二八三二九号、『動物園封鎖に関する通達と付随措置』により、三日以内の貴園の閉鎖を命じます。また、付随措置により、園長もすでにご存知のことでしょうが、閉鎖後、政府の指定する、園内の草食動物、肉食動物の措置を命じます。それに関して、……」
「ちょ、ちょっと待って下さい。『措置』とはなんスか。まさか、殺せと言うのでは…。」
「ご存知ありませんか。射殺して下さい。弾薬その他必要なものはこちらで用意しますから。」
「私も動物園園長の端くれッス。そんなことが許されるとお思いッスか。私にはできない。いや、他の動物園だってそんなこと。」
「他の動物園の園長方は、二つ返事でしたが…。役所としても、これ以上は出せませんので。」
そう言うと、本多は持っていた風呂敷きの結び目を解き、中身を園長に見せた。
「従業員の方々の退職金と、それと、役所からの園長へのほんの気持ちです。」
「……」
園長は、黙って風呂敷きごと手に取り、奥の部屋に持って行こうとした。
「あ、その風呂敷きは、あの…、役所名が書かれていますので…。」
「こ、これは失礼。」
赤面した園長から風呂敷きを受け取った本多は、その風呂敷きを綺麗にたたみながら、続けた。
「しかし、びっくりしました。先程見たのですが、耳のない少年が象の飼育をしていましたよ。」
「い、いや、あの子は、その…、そう、声も出なくて…どうせ兵隊にもなれんからということでして、従業員じゃないんス。はい。」
「は?…… あぁ。ハハハハハ。いいんですよ。そういう意味で言ったのではありません。どうせ、もうここも封鎖ですから、いいんです。……おっと、失礼。」
本多は気を取り直そうと、お茶を一口飲んだ。
「その子のことではなく、象のことなんです。」
「はぁ。エレフが何か。……あ、象の名前ッス。」
「ええ、その象なんですが、虎やライオンはこちらで用意するライフルで射殺が可能です。しかし、あの大きな象を殺すにはどうしたら…」

 次の日、報告書を完成させた本多は、再び市長室のドアをノックした。
「失礼します。市長、お待たせしておりました、報告書を提出に参りました。」
「やぁ、本多君、ご苦労だったね。あのアフリカ象の一件は、落ち着いたかね。どれどれ…。
『動物園封鎖について、広島市内、およびその周辺地域にある三ヵ所の動物園すべてにおいて、各園長の承諾を済ませた。』
と。よしよし…、
『動物の措置に関して、その措置方法は射殺とする。但し、「さくら動物園」に唯一存在するアフリカ象に限って、その措置方法は…、
【餌の無給による、餓死】
とする。』
か。はい、ごくろう。」





第四章 へ


3 OCEANS (TOPへ)