第四章


「教えてあげましょう。宇宙はなぜ素敵なのか。なぜなら、そこには輝く星があるからです。もっと本当のことを言うと、あなたの周りには、何かしらの『愛』があるからです。あなたが真の孤独者ではないからなのです。もしも、それら全てがなかったら、宇宙はただの黒い闇です。」

(和音の『日記』より)





 『本日を持ちまして、当動物園は封鎖致します。いままでのご利用ありがとうございました。』
 一九四五年六月、全国の一部の主要都市では、一斉に動物園が封鎖された。さらに、空襲により檻が壊れ、動物園の動物が町中で暴れ出す可能性を予想して、あらゆる動物達は、射殺された。しかし、さくら動物園において、大きい体と強大な力を持った象には、射殺という方法がと採られなかった。その方法は、餌を与えずに見殺す、餓死である。
 動物園閉鎖後、さくら動物園でも、動物の射殺が極秘裏に行われた。虎やライオンを始めとし、エレフ以外の全ての動物達は、虐殺されていった。半日とかからずにその行為は実行され、ついに人類の歴史にまた、黒よりも黒く、汚さよりも汚い、一つの深く醜い点が付けられた。いや、自ら付けた、その歴史の汚点の中で、和音はまさに生きていた。
 その次の日も、和音はいつものように飼育員小屋で朝を迎えた。動物達の射殺のことはもちろん、動物園の封鎖のことも知らされていなかった和音が、エレフに餌を与えようと、餌箱を持ち、小屋を出ようとした時、軍服を着た係員が和音の目の前に現れた。彼は何も言わずに餌箱を取り上げると、首と手を横に振り、そのまま立ち去った。和音はその男の行動の意味を知らず、係員の後を追い、餌箱を取り戻そうとした。
「まったく、この耳なしは…。あのな、もういいんだよ。もう、あの象に餌をやる必要はないんだよ。おら、どけ。」
係員の右手に振りほどかれた和音は、地面に倒されひじを着いた。一瞬、何が起きたのか理解できず、あの男が代わりにエレフに餌を与えてくれるのかとも思ったが、係員はエレフの檻の前を通り過ぎていった。もう一度、和音は係員を追いかけようとした。立ち上がり、尻の砂を払いながら何歩か足を踏み出した時、和音の視界には、信じることのできない光景が、否応なしに入り込んでしまった。動物達が死んでいる。目に映る全ての動物達が、それぞれの檻の中に転がっていた。『物』であった。重たそうな、ただの物にしか見えなった。それらは軍人達に引きずられ、大きな袋の中に詰め込まれていく。檻の中は血の海、死、死、死、静、静、静、無、無、無。立ちすくみ、何も見えず、まさに地獄絵図の動画を見せられている様であった。現実という背面に描かれた、さらに現実に近い、現実を超えた現実の絵を見せられている様であった。『発声』というストレスを吐き出す術の一つを持たない和音は、それでも喉を掻き鳴らさずにはいられなかった。和音の声は和音本人の聴覚にだけ響き、その擬音が、彼を本当の暗闇に誘っていた。しかし、闇よりも無色であったその精神の核の中に、ただ一点の薄い光を見出した和音は、その光を求めて、走り出した。エレフの存在である。その一点の光までもが、闇に取り込まれないで輝いていてくれることを祈りながら、和音は無心にエレフの檻へと走った。
エレフは……生きていた。檻の中は母なる海、生、生、生、動、動、動、有、有、有。その瞳はそこにあった。檻に入り、エレフに触れたその瞬間、一点の光は一気に闇を取り込み、和音の精神は母体の無重力の中に浮遊し、エレフの瞳の中に通じている一本の道の上で、ゆっくりと安定を取り戻していった。しかし、それが和音にとって、またエレフにとって、最後のぬくもりになってしまうという運命は、係員の次の行動で決定付けられた。
「何をやっているんだ。もうこの檻は立ち入り禁止だ。おら、来い。」
そう言って、まず係員は、和音の手から檻の鍵と飼育員小屋の鍵を奪った。そして、和音は引きずられ、無理矢理にエレフから引き離されようとしていた。腹と顎を地面に擦り付けられながら、和音の両手はエレフの左の前足を滑り堕ち、右手の中指の爪の先が、エレフの前足の爪の先から離された瞬間に、彼らの物理的な繋がりは断ち切られた。


 三日が過ぎた。

 (このまま餌を与えずに殺すつもりなの?)
和音は、問う対象を持たぬ問いを、ただ何度も問い続けた。
 和音は今、飼育員小屋に監禁されている。入り口の外には二人の監視が常に見張っている。扉には鍵が掛けられている。一日に二度の食事を与えられているが、和音はそれを口にしていない。すでに空気と胃液しか存在しなくなった胃の中から込み上げる空腹感に、エレフとの一体感とエレフへの愛情が打ち勝っていた。もう動く力もなく、ただ存在する、恨めしい思考力が、和音の頭の中で常に絶望の苦悩を生み続けていた。

 少しずつ気が遠くなる…。扉が開いた。一人の医者が、飼育員小屋に入って来た……。





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