最 終 章





 ! エレフの長い鼻が、和音の顔を撫でていた。
「エレフ! 生きていたんだね。エレフ! エレフ!…」

 ! お母さん……。
「和音、和音、朝よ。今日から小学校でしょ。目を覚まして。目を…。」
「僕の名前を呼ばないで。名前を呼ぶと…。」

 ! 木陰おじいさん……。
「和音、和音、いい子だね。一緒にエレフの曲芸をしよう。一緒に…。」
「だめ、名前を呼ばないで。お願いだから。もう、名前を…。」


 夢だったことに気が付いた時に、和音の目の前には医者の顔があった。
「おお、気が付いたかね。君は栄養失調で点滴を打っていたんだ。顔色も普通に戻ったし。きちんと食べないとだめだぞ。……おーい、もう大丈夫だ。このドアを開けてくれ。…じゃあな、ぼうや。」
 医者は出て行った。再び扉には鍵が掛けられた。どのくらい眠っていたのだろう。エレフは、エレフは…。和音は、自分の体の中に注入されてしまった栄養を呪った。自分も餓死するつもりだった。
(…エレフは生きているのだろうか。)
和音は飛び起きて、扉を力いっぱい叩き続けた。ドアノブを何度も引っ張った。しかし、扉は開いてはくれなかった。
(この扉に鍵を掛けているということは、エレフはまだ生きて…。)
そう思った時、和音の耳に何かが聞こえた。和音の鼓膜を何かが振動させた。常に暗闇に包まれていたその聴覚に、一筋の光が進入し、それは次第に広がりを意識させていった。




(エレフだ!)
間違いなくエレフの泣く声であった。
(ワオーン、ワオーン)
聞こえる。いや、感じる。和音の心を刺すようにその響きは伝わった。その声は、まるで(和音、和音)と叫んでいるようだった。
(だめだ、エレフ、僕の名前を呼んじゃだめだ。今行くから、今、行くから)
象の泣く声は、和音の脳に何度も木霊し、それまで無力な少年の頭の中で繋がっていた平常心の糸を、簡単に切った。
(わぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!)
椅子を持ち上げ、窓を破り、そのまま外に身を投げた。その音に驚いた二人の監視は、すぐに和音に駆け寄り、抑え付けた。片方の監視の手を噛み、もう片方の監視の目に砂を浴びせ、和音はエレフの檻に向かって走った。エレフは確かに泣き続けていた。なんとも表現しようのない、どす黒い声で、和音を呼んでいた。
「象の鳴き声が聞こえるのか!?」
そう言いながら二人の監視は和音を追い、檻の手前で和音の体を捕まえることに成功してしまった。
(エ・レ・フ! エ・レ・フ!)
音にならない声で、和音は涙の海の中、エレフの方に手を差し伸べたが、エレフは衰弱しきったその大きな体を、横にしたまま、和音を見つめていた。象の目にも、確かに涙が溜まっていた。
(エ・レ・フ! エ・レ・……)
次の瞬間、その光景を見た誰もが、固まっていた。その光景を見た誰もが、永遠の宇宙の中で、自分だけが取り残されてしまった経験をした。その光景を見た誰もが、罪深き全ての行為を認め、己の生きて来た道を後悔し否定するべきであった。
 エレフはゆっくりと立ち上がったのだ。そして、和音の瞳をしっかりと凝視しながら、鼻を波型にし、震える前足を伸ばした。エレフは、今まさに、餌を求め、曲芸をしている。そして和音の輪投げを待っている。褒美の林檎を待っている。疲れ、倒れ、もう一度起き上がり、そしてまた、曲芸をする。ドサ、ドサ、と巨大だが餓えきった一匹のアフリカ象の巨体は、無情に、無力に、地面に堕ちることを繰り返し、和音の全身には、その狂おしい重さが何度も振動した。その度に、世界中の重力が和音の精神の壁に圧し掛かり、彼の正気という正気は、崩壊していった。
(エレフ、もう踊らないで。エレフ…)
 力尽きたエレフは、与えられることのない林檎を求め、和音を見続けながら、ついに最後の一声を発した。
「ワオーン…」

 何億分の一かの確率で与えられた、一匹のアフリカ象の貴重な命の灯火は、無意味に消去された。和音の還るべき場所だった、エレフの円らな瞳の精気が、見る見るうちに失われていくのを感じ取りながら、和音はその時、ディジャヴを体験していた。
 あの一年前の黒い空が、彼の周囲のみを覆い尽くし、黒い雨が、彼の周囲のみに降り注ぎ、黒い雑音は、破壊しきれない彼のその聴覚を刺激し続けていた。扉のない、暗闇という牢獄に閉じ込められた彼の全ては黒く、闇宇宙の圧力に圧迫されたその精神世界は、黒さに照らされていた。あらゆる感情が消え失せていく中で、もう、一点の光さえも探し出すことはできなかった。いや、存在しない光を探すという意識を、彼は消失させていた。


 ただ、最後に、果てし無く底の無い、本当の『黒い闇』に沈んでいきながら、和音は声を取り戻していた。そして、静止してしまったエレフの瞳を見つめながら叫んだ。

「お母さん!」






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