出雲のことばと生活2
出雲弁は暮らしの中で使われ継承されてきました。
貴方の出雲弁を綴ってみませんか。
「ないすあたま」 「ないす(し)」は鯔(ぼら)の幼魚のことです。夏になると「ばしゃっばしゃっ」と水面を飛び跳ね宍道湖の夏の風物詩です。 全国的には「いな」が主流で「おぼこ」「すばしり」などと呼ばれているようです。 「ないす(し)」と呼ぶのは出雲地方だけかもしれません。
貴重なタンパク源だったのでしょうか。 そのことから松江では
金沢[松江]
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「かえるつー」
タデ科の植物で「ミゾソバ」という草がありますが、この草を出雲弁では「ぎゃーこくさ」、または「かえるぐさ」と呼びます。 「かえるぐさ」は、他地区の人や、町から来た人への説明の時に使い、じげで、普段使うのは「ぎゃーこくさ」で、他の言葉でも、普段使う言葉と、いわゆる“よそいき”の言葉があって、その都度使い分けます。 「ぎゃーこくさ」の葉っぱをとって、汁が滲んで緑色が濃くなるまで手で“ももしって”(揉んで)、「エノコログサ」などの草丈が高くて穂の出来る草の先に“えわえつけて”(結んで)、蛙の前に垂らすと、蛙がパクっと食いつきますから、それを釣り上げます。
まだ「おもちゃ」など少ない時代には、子供の遊びとして行われていました。 KEN[八雲]
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「ひょーしぎぐい」
NHKの「しまねっと」で出雲そばの特集をしてました。(2002年10月下旬) その中で「わりご蕎麦」の「ひょーしぎぐい = 拍子木食い」というのがあり、おやじから聞かされたことを思い出しました。 明治の末期から大正にかけてのことです。 「わりご」も今のようにまん丸なものだけでなく[長丸い形のものがあり、それを両手に持って箸を使わずにカチンカチンと合わせて蕎麦を隅に寄せて「カポッカポッ」と丸のみする食べ方があったというのです。 昔の「わりごそば」は今の半分も入ってなかったのでそういうことができた、と父は言ってました。 「わりご蕎麦」の「拍子木食い」全国のどこにもない食べ方だと思います。 その番組の中で「長方形のわりご」があったことを映像で知ってびっくりしました。 まさに「拍子木」ですね。 金沢[松江]
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「いたみ」
坪掻き(墓ほり)が土葬をすませて帰ってきた際に、鍬をかついだまま家へ入りますが、穢れ、忌みを払う意味でもあるのでしょうか。 入り口の敷居の外に、”いたみ”を伏せて置いてあるのを強く蹴って入る慣わしになっています。 火葬になった今でも習慣として残っています。ただし、葬家に”いたみ”が無い場合などには省略する場合もあります。
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「はしんしたの、ばばさんが・・・・」
<斐川町> 今朝、息子がカッターシャツのボタンが取れているからつけてくれと頼み、朝の出掛けのことなので、忙しい思いをしながら直しました。 その時、昔母が言っていた言葉を思い出したので紹介します。 「やーれ はしんしたの ばばさんが しなっしゃって あれ いそがしや いそがしや」(出雲弁) 「大変だ 橋の下の お婆さんが 亡くなられて あー 忙しい 忙しい」(共通語) この言葉の意味を、偶然にもかかってきた叔母の電話で確かめたところ、「死人というものは 予定もたたず予測もつかず 突然の出来事だから 急に忙しくなることを 言ったものだろう」 との事でした。 何故、橋の下のお婆さんなのかは叔母も知らないそうです。 朝、出勤・登校する直前に繕い物をしなければならなくなった時、母も叔母も 記憶のどこかにあった私も、同じような言葉を心の中でつぶやきながら作業しました(笑)。 岡田よ[斐川]
「向こう(の家)の お婆さんが 亡くなられて 早く 行かなくては。ああ 忙しい。ああ 忙しい。」(共通語) ちなみに、これは朝の忙しい時に、一度着物を着たあとで、ボタンが取れていたり、ほころびているのに気づいて、着たままで縫う場合に限って使う言葉です。 KEN[八雲]
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「田植え」
田植機の無かったころは手植えでしたが、「わく植え」→「つな植え」→「ばばひき」と工夫されて、だんだん能率的になっていきました。 「わく植え」は植え幅の正三角形の板二枚と印がつけてある三本の棒で枠を作り、枠を手前に裏返してバックしながら印のところへ植えました。 「つな植え」は長い縄に印がついていて、その印のところに苗を植えていく方法で、田圃の両側から、人が引っ張って次の列に移動していました。 「ばばひき」は木材に細く割った竹を打ち付けた「ばば」を引き、田圃の土に筋をつけて田植えをしました。 田のなかへ入るときは「あしなか(ぞうりの半分位の短いもので土踏まずから前の方へ突っかける)」を履いてはいったものです。
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「ひまおさえ」
午後3時頃、隣の畑でオバサンが畑仕事をしています。 縁側から隣のオバサンに声をかけます。 「オバサン、タバコす〜だわ。ココ。お茶飲んだわ。」 「あら、ダンダン。ほんな〜よばれーか。ケ、こげなきちゃねかっこで。」 「あら、そげかね。ひまおさえしましたね」 木次町では、日常会話です。 石田[木次]
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「たもぎ・まどぐぁ」
たもぎは秋に稲を刈り取った後で麦を作る為に作るのですが、麦は本来湿気(水分)をあまり必要としませんので、水田を上げ底にする為に考案された方法のようです。 私は「田麦」が訛ったものではないかと思っていますが‥。 土が鍬に引っ着かないようにするのと、少しでも軽くする為の工夫では無かったかと思います。 冬の冷たい田に入って重い土を腰の高さまで上げるので、相当の重労働です。 この作業をこなすのがある意味で1人前の証とされたそうです。 高橋[平田]
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「子供の遊び百態」 今のようにテレビもゲームもない時代でしたから子供たちの遊びももっ ぱら戸外でした。 いたるところに原っぱがあり湖も川もきれいでしたからどこでも泳げました。 「すいこねやこ=水潜り遊び」です。 とにかく野山を走り回って遊びました。 「ごんとび=ゴムひも跳び」「ケンケンパ」「おはじき」、地面にござをしいて「ままごと」などでしょう。 金沢[松江] |
【こっぽ焼き】・【もぎこがし】−子供のお菓子二選−
「こっぽ焼き」は戦前からあった焼き菓子の一つです。 正式名称は「こっぽり焼き」で松江の天神さん(天満宮)前にその店がありました。 今はロータリーになっているあの場所です。 当時(戦前)の子供が口にするお菓子はきわめて限られており、普段は「おもし芋=ふかし芋」なら上等の方で、時にはトマト一個のまるかじりだったりしました。 そんな状況の中でたまに父親が買ってくる「こっぽ焼き」は宝物のようなものでした。 なんのことはない、小麦粉に卵とかを入れてふくらし粉で焼きあげた「一口カステラ」みたいなものでしたが戦前手に入る菓子としては「桜餅」とこの「こっぽ焼き」だけだったような気がします。 今のように「実演販売方式」のない時代にその店の前に立つと作っている様子が見えるので飽きずに眺めたことを思い出します。 「おおばん焼き」や「たい焼き」が出現する以前の昭和二〜三十年代の話です。 「もぎこがし」は「麦粉菓子」ではなくて「麦焦がし」の通称で別名「こーせ」ともいいます。「香煎」の訛ったものです。 「はったい粉=麦を煎って粉にしたもの」に砂糖を入れて熱湯で練り上げたものに過ぎませんが甘い物に飢えていた時代には何物にも代えがたい子供のおやつでした。 金沢[松江] |
【はしわたし】 箸から箸へ食べ物を渡すことをなんて言いましたかいね。 子供の時に箸わたしをしようとすると叱られました。 「箸わたしは、焼き場の骨拾いですーことだわの」(出雲弁) 「箸わたしは、火葬場の骨拾いですることだよ」(共通語) 爾来そのことが頭に焼き付いてしたことはありません。 「焼き場での箸わたし」は世間一般的にすることなんですかね。 他の地方での習慣を教えてください。 金沢[松江]
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【いんかき(えんかき)】
「いん」「えん」。どっちも使っていました。過去形なのは最近煙突掃除などしなくなったからです。 「きょ は かじぇ が ねけん えんかき しーか。」(出雲弁) 「今日は風がないから、煙突掃除しようか。」(共通語) 使った道具は「ちぎだま」。ぼろ切れの玉を煙突の内径に合わせて作ったものでした。 掃除の後は気持ちよく燃えました。 金本[東出雲]
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【炬燵がたこねあがー】 ───炬燵百態─── 本炬燵の季節になると炬燵に関するいろいろな言葉が飛び交う。 ○炬燵に炭を継ぎ足すことを「炭をいける」という。 「おぇ 炬燵に炭 えけちょけや」(出雲弁) 「おい 炬燵に炭を継いでおけよ」(共通語) 「ちと 炬燵が のりこたねかや ふ ほってのくんしてごえた」(出雲弁) 「少し炬燵がぬるくないか 灰を除けて熱くしてくれよ」(共通語)
「ちと あちこたねかや おめてごえた」(出雲弁) 「少し火加減が熱くないか 灰を被せてぬるくしてくれよ」(共通語) 「こら あげごたつすーなや」(出雲弁) 「こら 脇空きごたつに するんじゃない」(共通語) 「こら たのきの穴ができちょーでや」(出雲弁) 「こら 狸の穴が出来ているぞ」(共通語) 「こら ちた ちゃんとしちょれ 炬燵が たこねあがっちょーがな」(出雲弁) 「こら 少しはじっとしていろ 炬燵布団が捲れてしまっているぞ」(共通語) 「このこたちゃ めめずがでーやなの」(出雲弁) 「この炬燵は ミミズが出るような(ぬるい炬燵だ)ね」(共通語) KEN[八雲]
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