出雲のことばと生活3

 出雲弁は暮らしの中で使われ継承されてきました。
 貴方の出雲弁を綴ってみませんか。

 

ふがなえっちんち

 農家の働き盛りの男の人などが、一つの仕事に熱中することなく、あれをしたり これをしたり短時間でなく一日中怠けていた時に使います

また、完全に休むのでなく、いろいろな、ほんの手先仕事を一日中していた時に、一日を振り返って「きょうは、ふがなてんちらまんちらしていた」などと言っていました。

森山[湖陵]

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ざしきぼいた

今は食事時の訪問は避けるし来られても特別な人以外は出さないが、昔はすぐに食事を出しました。

中にはそれを狙って訪問する、あつかましい人がおり、ざしきぼいた」と陰口を言いました。

、それに三軒目の爺3を加えた三人の話しです。

爺3「こんにちは ただものだんだん」

「そぎゃん所で ものやなんか言わんでも 早やこと上がってあたらしゃい」

「○○屋のおっつあん ごだしゃたね」

爺3「べったー べったー おじゃましてー」

「この頃 何しちょうかね」

爺3「こげん寒みと何んだーなーせんわね」

「うちらちも何だーせしこね、婆ーあさんとヤグラを引っ張ーやこして炭焼きだね」

爺3「うちは電気炬燵だけん炭焼きだないだども、同なじもんだわね。そーねしても、いつだい迄では、婆さんと二人であたちょう内に、手が当たー足が当たーすると、えなげな気が起きよったに、この頃はそっとだり」

「お前もかね。おらより三つも若いね」

「まーじ、ええ歳からげて、そげなやらしげな話、止めてごしなはい」

爺3「だらじ話は今度、おばさんのおらえん時さーや。そーで今度の祭りのよりは、いつしーだ」

「この頃はえそがし無いけん、何時でもええわ。まかせーわ」

爺3「まかせてごさっしゃーか。そーだども△△屋のえがんばりが、又まぜくーけん話がまとまーせんわ」

「あのえがんばりにゃ、いつも困まーわ」

・・・・・暫く世間話が続く・・・・・

「えーじぶんどきですわ。ちーはんあーがませ」

爺3「もうーそぎゃん時かえね。ざしきぼいたみたえに、又よばれーだかね。」

「なんだーあーしませんだども、あーやわせで、あっち汁ー炊いたほどですけん、あがーましてごしなはい」

森山[湖陵]

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ちーけやき

ちーけやき」は「かんのむし」「ひきつけ」「夜泣き」などの予防・療治しつけのためにするお灸のことです。

両親や祖母などからお灸をすえられた思い出があり、その熱かった事は今でも鮮明に覚えています。

悪いことした時親の言う事を聞かない時など「あっちち せーぞ」と脅されました。

今なら、りっぱな児童虐待でしょうか。

森山[湖陵]

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いーすとはさみ

二つのグループに分ける時使います

出すのはグーチョキ

グループが決まるまで「あらみ、み、み、…」と出し続けます

「石」と「はさみ」の意味ではないかと思います。

他の地区や地域では「グーチ」「グッとパ」グーッパなどがあります。

いーすとはさみを使うのはかなり少ないらしく、同じ小学校出身(神戸川小)にしか通じませんでした。

原[出雲]


じゃんけんで2つに分ける場合は大東ではぐっぱでした。

普通にやっきで勝ち組みと、負け組みにより2つに分ける場合において、人数が奇数のばあいどうするかというと、やっきの前に1人は「かちまけ」となり、勝ち組みか負け組みかを宣言させられます。

ソフトボールの組み分けなど、下手なもの、低学年などが「かちまけ」の対象となります。

遠藤[大東]

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えでをほる

一昔前の親子同居が当たり前の時代、立場の弱いお嫁さんがいろいろ不満なことが口に出して言い難く家族に無断で実家へ里帰りすることをえでをほると言っていました。

離縁することは例えば「○×屋の嫁さんはえないたとや」「そげかい とうとうえないたかーい」

二〜三十年前の姑同士の会話の一コマです。

A「まあーじ このごろの若けもんは 朝まが遅せけん朝飯(あさはん)ごしらえは 私が しーわねん」

B「 そげな あてこしーやな ことしてー。知らんふりしてー もうー ちょんぼし寝ちょうだわね」

A「 しょしー わけだー あーませんだども、見かねてね」

B「 そぎゃん事 すーと えんまに 嫁さんが『「姑(しーと)さんが しょしらいて いけん』てて言って えでほーじね」

A「 そげだらかね。えでほらいと こうじにんさんを たてて迎えに行かにゃならんけんね」

森山[湖陵]

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「よぼり」と「なげばり」

ウナギ漁の一つに「よぼり」がある。

夏、川の水が少ない時期、川岸が野面積み(自然石を積んだ石垣)の所を選んで、川上に向かってガス灯で照らしながら、餌をとりに出ているウナギをヤスで突く漁法

よく蛇に出くわした。

時たまマムシにも。すると「やまウナギだー」と叫びすっ飛んでかえつた。

この頃はどの小川も岸はコンクリート壁で、ウナギの居場所がなくなり「よぼり」の言葉だけがの残っている。


もう一つ「なげばり」という釣り方があった。

2mぐらいの糸にウナギ針をつけ、「おーめめじ」を餌にして川の深みを選び、数多く土手の草や杭に結んでおき、朝回収する釣り方。

この頃は年中スーパーに蒲焼はあるが、養殖のフニャ フニャ。

川で釣ったウナギの歯ざわりと、うまかったことが今でも忘れられない。

当時としては大変なご馳走で、ウナギ釣りの役得であった。

森山[湖陵]

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とぐち

湖陵町の農家には入り口が三つあった。

とぐち(玄関)こふらぐち(横からの入り口)たなんとぐち(勝手口)があり、とぐちからは普通農作業などの出入りはしなかった。

農作業や雑用はこふらぐちで、土間には地下足袋や長靴が置いてあり、壁には農作業衣がかけてあった。

とぐち家の顔で、入り口の敷居は分厚い切石の土台の上にあり、重厚なつくりの障子が建っている。

誰かが在宅なら、寒いとき以外はだいたい空けてある。

今は玄関の内外と敷居の高さはないが以前は20cmぐらいあったと思う。

農作業に出る時など、ちょとした用事を思い出し、鍬など担いだままでとぐちから入ろうものなら「こーな だらくそー」と大目玉をくう

「鍬をえなって、とぐちからひゃーのは坪掻き(葬式の墓穴掘りの役)だー、縁起でもないー」と。

20cmぐらいの敷居は幼児は跨ぐのは困難だが、敷居を踏んでの出入りは許されなかった。

とぐちの敷居は当主の顔だと言われた。

祝い事や旅行などはとぐちから出ないと怒られた

森山[湖陵]

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とまり餅

昭和三十年頃ぐらいまで、初泊りの風習がありました。

農村では当時、新婚旅行の風習はなく、花嫁さんは気苦労から解放される初泊りが、一番待ちどおしかったそうです(愚妻の談)。

実家への土産のなかに必ず、重箱一杯の餅を持っていった

嫁ごさん餅です。

近所に配るには足りないから実家で搗いて、近所に婚家よりの土産ですと言って配った。

だいたい二三日で戻るが帰るときも色々な土産と一緒に、必ず重箱一杯の餅を、とまり餅と称してもって帰った

婚家でも近所に配るには足りないから搗き足して、嫁さんのとまり餅ですといって配った。

婿入りと称して、初泊りに花婿も同伴することもあったが、花婿は一泊で帰らないと、だらじ婿と言われた。

こんな餅の遣り取りも、最近は全くなくなりました。

森山[湖陵]

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虫かご

かやをつって寝たのは、いつ頃までだったでしょうか。

この季節になると蛍狩りと麦わらで作った蛍かごのことを思い出します。

麦わらで編んだ虫かごは、麦わらを底に十文字にしたのを底にして、次々と麦わらをつないで(さしこんで)編み上げていきます。

私は蛍としかむすびつかないけど、このかごを覚えていた友人は、蛍は入れなかったと言っていました。

彼女曰く『蛍はかやの中に放すもの』だそうです。


それから、イナゴとりのこと、覚えていますか。

食べた味のことは、あまり記憶がないのですが沢山とれました。

イナゴ捕りには、入り口に竹筒を挿しこんだ布の袋を用意し、その中に捕まえたイナゴを入れていきました。

虫かごの作り方がのっているホームページがありました。

でも、私の記憶にある虫かごは上がほとんど閉じていたような気がします。

http://www.tenjo.go.jp/kawaranbe/ky030621.html

いしとみ[出雲]

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ほんこ

出雲弁辞典の中に「ほんこ」と言うのがありますが、その反対の言葉として「わざこ」を使っていました。

「ぺったん」や「らむね」を知り始めた頃、少し大きい子供たちが教えてくれます。

最初はわざこ」でゲームに負けても「ぺったん」や「らむね」は取られません

そうやって、子供なりの博打を教え込まれて、「ほんこ」の世界に引き込まれていくわけです。

そして、弱いやつはみんなまきあげられて、親に「ぺったんカッテー」とねだる。

そして、親は言う「あんたやちゃ、ほんこ すーだないよ。わざこ であそぶだよ」と。

でも、やっぱり「ほんこ」してました

松尾[湖陵]

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はで

「はで」とは、刈り取った稲を乾燥させるために、風向きに対して直角にしつらえたものでした。

色々あるでしょうが、私の記憶の範囲でのことを述べます。

(横田町の)はで木の材料は栗で、皮をはいでありました。

真直ぐなのを、一間ごとにたてていきます。

重たい支柱をすぽっと田んぼに深く突き刺す

両手で持ち上げ狙いを定めて振り下ろす。

繰り返すうちに深く突き刺さっていく。

次には下から竹(孟宗・真竹)を結わえ付けて段々にしていく

私のところでは六段でした。

一間に六段だと、掛けた稲束でおよその収穫量の見当がつくのです。

先を股のようにした栗材をところどころすげて、倒れるのをふせぐようにしてありました。

下から上へ掛けていくのですが高いところになると、投げてあげねばいけないので、子供達の手伝う場面もあったのでした。

大きいはでになると、幅が十間ぐらいのものもあったと思います。

天日で乾燥させ、おいしい仁多米を手間を掛けて作っていたのです。 

児玉[横田]

 

(補足説明)

私の方(八雲村)の「はで木」は、ほとんどが杉の木です。

「稲はで」の高さは、今は10段〜12段くらいが普通ですが、昔は、15段〜17段のもありました

KEN[八雲]

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シラウオのおどりぐい

白魚(しらうお)は、春先になると大橋川をのぼってきて宍道湖に入ります

それを「四手網(よつであみ)」で獲るのです。この四手網漁は全国的に同じです。

大橋のたもとやそれぞれの定位置で四手網漁がはじまると飽きずに眺め入ったものです。

宍道湖のいや松江の風物詩でもありました。


そうして獲った「しらうお」を生きたままで食べるのを「白魚の踊り食い」といいます。

この「踊り食い」という食べ方も呼称も全国的に同じです。

だからといって、松江の住民誰でもが「踊り食い」で食べたかというとそうはゆきません。

「しらうお」を生きたまま入手する手段がないからです。

松江の住民の九十九パーセントが「踊り食い」をしたことがない、というのが実情でしょう。

私自身も成人になってからはじめて知り、体験しました。

もともと「踊り食い」は松江ではあまり盛んでなく、余所のように専門店があるわけでもないので料亭にゆくしかありません

料亭ではガラスや白磁の大鉢に生きたしらうおを入れ、ぎざぎざのついた専用の「竹バサミ」か小さな網杓子を添えてお客に出します。

味は甘く美味しいのですが、なにぶんと生きたまま噛み潰すわけですからちょっとした罪償感がともないます

ま、なにもそんなに粋がらないで、生きさえ良ければ死んだのを食べれば同じことなのですが。


「しらうお」の他に「しろうお」というのもあります。

この辺では隠岐の川で獲れます

見た目にはほとんど同じで時期も春先、川をのぼってくるという習性も同じです。

「踊り食い」という食べ方まで同じですが魚としては似て非なるものです。


「しらうお」「白魚」と書き「しらうお科」に属し魚としては鮭、鱒に近いものですが、「しろうお」「素魚」と書き「ハゼ科」に属します。

「しろうお」は「しらうお」に比してやや大きく身体も丸みがあります。

「踊り食い」をすると少し「骨がましい」感じで、私は断然「しらうお」に軍配です。

金沢[松江]

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