出雲のことばと生活 5

 出雲弁は暮らしの中で使われ継承されてきました。
 貴方の出雲弁を綴ってみませんか。

 

 

お盆に関する言葉

ぼんだな【盆棚】
お盆が近づくと、仏壇を清浄にして、サトイモの葉を敷き(または、上から吊るして)、長ヒラマメ、サトイモ、素麺などを供え、ホオズキ(鬼灯)を糸で連ねて仏壇を飾った。またナスビに【おがら】で足をつけて牛に、キュウリは馬に見立てて、仏様に牛馬の乗り物を用意した。

かどび【門火】
門口で焚く【迎え火】または【送り火】

むかえび【迎え火】
8月13日夕方、【おがら】や麦藁を焚き、「ジイサン バアサン コノアカリミテ ハヤ ゴザッシャエ」と唱えて仏さんを迎えた。

おくりび【送り火】
8月16日夕方、【おがら】や麦藁を焚き、「ジイサン バアサン コノアカリミテ ハヤ エナッシャエ」と唱え、仏さんを送った。

おがら【麻幹】
麻の皮を剥いだ茎。あさがら。

ほとけんま【馬追虫】
お盆のころに出没する虫。仏様の乗り物とされ、殺生はハット(法度)であった。

ぼんばな【盆花】
加茂では「おみなえし・女郎花」を「ぼんばな」と呼んだ。キキョウやミゾハギを「ぼんばな」という土地もあると聞く。

ぼんとんぼ【盆とんぼ】
盆のころ出回る秋のとんぼ。赤とんぼの「あきあかね(秋茜)」を指すことが多い。

ぼんれ【盆礼・ぼんれい】
お盆に「ほとけさん拝み」と報礼のため訪問すること。また、その贈答。
訪問先は、本家・縁戚のほか「お寺」、【よこや】、懇意な「新盆」先など、戸主にとっては結構忙しい盆行事の一つ。

ぼんれきゃく【盆礼客】
「ぼんれ」の来訪客。

よこや【横屋】
神主の家。その家が神社の片脇にあるからいう。

ぼんだんご【盆団子】
お盆のお供えや「はしま・間食」用に、黄粉団子の「ぼんだんご」をつくるのが慣わしであった。おやつの乏しい時代、子供にとって楽しみの一つでもあった。

f−k[加茂]

 

表紙ページ

 

出雲の婚礼用語


<その1・挙式まで>


こーじ(結婚の仲介。「こんど、こーじ たのまれての」)

こーじにん(仲介人。媒酌人。なかうど)

たのまれこーじ(頼まれこーじ)・やとわれこーじ(雇われこーじ)/森山[湖陵]

恋愛結婚や親戚縁者・青年団など身内で縁談話を進めた場合に、形を整えるために、地区の有力者などにお願いした婚礼の席だけの「こーじにん」。頼まれ仲人。この言葉は、多くの場合、「こーじにん」が自分を卑しんでいうときに使ったように思う。

A:こんど こーじ されーげで おおしごとだ わ(今度仲人されるそうで、大仕事ですね)
B:えんや たのまれこーじ(orやとわれこーじ)だけん しわっとー ばっかーだわね(いやいや、頼まれ仲人だから座っているだけですよ)

ききあわせ(聞合せ)

婚約する前に相手方の家柄や人柄を近所に出かけてそれとなく聞き出すこと。「こーじにん」による見合い結婚が主流の時代、現在は無くなったが、戦後しばらくは「家のスジ(キツネ持ちなど)」や家と家との「ちーあい(釣合い)」がとかく重要視された。

(注)湖陵では「といあわせ(問い合わせ)」といっていました/森山[湖陵]

いーのー(結納)

いーのーびらき(結納開き。花嫁方で行う結納の披露とその祝宴)

でごんれ(出婚礼)

かどで(門出)

わかれのさかじき(別れの杯)

祝言に先立ってその当日、仲人が花婿を伴って訪問し、花嫁方で行われた「かどで(門出・生家から嫁ぎ先への出立)」の儀礼と祝宴。「でごんれ」の最後に「わかれのさかじき」を交わし、花嫁は三つ指ついて両親にお礼と別れの挨拶を行い、オモテノマから出立するのが仕来りであった。

かどむかえ

屋敷の入り口で花婿方が行う花嫁の出迎え。だだし、この語彙については記憶が定かでなく自信がありません。もし、間違っていたら教えてください。
花嫁はここで生家から履いてきた履物を捨て、花婿方が用意した履物に換えて婿方の玄関をくぐった。「もう帰る手段はないよ。もう、うちの子だよ」との意か。

 
<その2・挙式・挙式以後>


しーげん

「でごんれ」の後の「しーげん」は大抵、夕方から始まり、夜の白むころまで続いた。

よめごさんみ(嫁ごさん見・花嫁の顔見)

じぞさんかちぎ(地蔵さん担ぎ)

「しーげん」が宴たけなわともなるころ、近在の人々が「よめごさんみ」にやってきた。中には障子に穴を開けて覗き込む人々もあった。若い衆は、近在から集めたお地蔵さん(多くは六地蔵)を縁側に並べた。「尻が据わるように」との意。お地蔵さんは婿方がもとあった場所にお返しするのがルールだったが、普段、付き合いの悪い家にはイヤガラセ半分に所在不明のお地蔵さんが担ぎ込まれることもあった。このような場合はご祝儀を弾んで若い衆に引取りをお願いした。

おさめ(収め。酒宴の終わり)

おさめのさかじき(収めの杯。宴会の最後に順次に廻す大杯)

「おさめのさかじき」は酒一升も入るかと思えるほどの大杯で、これを全部飲み切らないと「おさめ」にならなかった。大杯が廻っている間は、歌や踊りで大賑わいであった。

ほんきゃく(本客。祝言の主賓や招待客)

あときゃく(後客。祝言の後に行う祝宴、その招待客)

隣保組み、青年団、婦人会など、「しーげん」の「ほんきゃく」としてお招きしなかった方々を、翌日以後に招いて、お披露目兼用の祝宴を行った。家によっては「あときゃく」が2〜3日つづくこともあった。この間、お嫁さんは髷を崩さないように、重ねた布団を背にしての仮眠状態が続いた。

かおみせ(顔見せ。花嫁の挨拶回り)

花嫁は「しーげん」の翌日ないし翌々日、姑に連れられて組内(地区内)を挨拶回りした。(これを「かおみせ」といったように思うが、記憶が定かでありません。もし、間違っていたら教えてください)


蛇足 昔の結納目録は「御祝儀」「帯代」「八木代(はちぼくだい)」などが普通であったようだ。「八木代」は「八+木=米」で「米代」。
 

f−k[加茂]

<追加>

にーそく

式での役柄?は人足だが、両家から仲人についで歓待された。昔は婚礼当日に花嫁と一緒に嫁入り道具を運び、二人ぐらいが列席した。終戦後頃より前もって大安吉日に収めたが、一人は必ず「本客」として招かれ、歌や踊りで座をもりあげた。

   
えしょみせ(花嫁の衣装 道具類の披露)

きんじょきゃく

「あときゃく」に「きんじょきゃく」があり隣保の婦人会を招きましたが、姑さんが箪笥の引き出しを全て開いて披露したたそうです。「みせるも仁義 みるも仁義」でプライバシーなど無かった時代ですから。


森山[湖陵]
 

 

表紙ページ

 

ごへだ

年寄りは石炭を「ごへだ」といっていました。

戦時中、湖陵では亜炭という粗悪なものが盛んに採掘されました

石炭が極度に不足した時期に石炭と混ぜてもやしたそうです。

石炭のように地中深い処ではなく、殆ど地表に近い地下十数メートルからあります。

道路工事などで切り取った崖などで炭層がみかけることがあります。

森山[湖陵]

 

こないだ筑豊へ行ってきましたが、石炭を積んで筑豊から北九州へと遠賀川を下った川舟を五平太舟といったそうです。

ごへだとは多分その辺からきてるのでしょう。

筑豊では石炭のことを「ごへだ」とはいいません

なぜ。五平太舟というのかは聞けませんでした。

遠藤[大東]

 

ごへだ、ですが調べてみると、石炭を発見したのが五平太という人だったのだそうです。

遠藤[大東]
 

江戸時代、瀬戸内では石炭のことを筑豊産を「いしずみ」肥前産は「五平太」といっていたそうです。

奥野[平田]

 

表紙ページ


 

まや

 納屋は「まや」とも「こや」とも呼んでいたが、強いて言えば牛舎兼用の納屋を「まや」と呼んでいたような気がする。

f−k[加茂]


「まや」は牛馬を飼っている小屋(納屋?)を指していて、牛馬が居ない納屋とか漬物などを保存していた小屋は 今思い出せませんが 別の呼び方をしていました。

miyake[東出雲]

 

 我が家でも昔(私が生まれる前)は牛を飼っていたらしく、納屋の片側にその牛の部屋があって「まや」と言っていました。

昔は、牛で田をおこしていたからだと思います。

牛以外にも、私が小さくて物心付くか付かないかの頃までは「綿羊」が居ました。

なんとなく覚えています。あの、毛糸の元になる毛を刈る羊です。

それから、小学生の頃までヤギが居ました。

ヤギの乳搾りは、親の命令でよくやりました。上手いですよ。

松尾[湖陵]

 

 確か、牛の部屋(部屋と言う言い方も変ですが)の前には、藁をトントン叩く台がありましたし、家畜も農作業も農機具置き場も、母屋と離れた建物に一括して有りましたから、総称として「まや」と言っていたのかもしれません。

松尾[湖陵]

 

 やはり、作業場としての要素は不可欠のように感じます。玉湯町の私の祖父母宅が農家で、まや と呼ばれる2階建ての建物の1階部分の奥に牛がおり、その横に牛の餌になる草が積まれていました。

手前には 作業をする広いスペースがあり、耕運機・農耕具・ねこ車・藁を叩く台や切る道具・蓑などが置かれていました。

1階部分は収納をすると言うより 作業をする場、という感じだった気がします。

梯子を上った2階部分は 馬鈴薯・なんばぎん・球根・ムシロなどの保管場所(そして猫の出産場所)でした。

まやの外側に広く長い屋根を付けた場所があり(壁は無く柱のみ)、そこに「まや肥え」がどんどん積み重ねてありました。

冬に 手がこちけて てごが出来ん、と文句を言うと「まや肥えん中に手突っ込んじょれ」と言われました。
 

miyake[東出雲]

 

 我が家では、牛と農機具を一階に、藁を二階にという具合でした。

嘗ては馬を飼っていたのでしょうが、農耕には牛が適していたのだと思います。

田舎育ちの私にとっては馬より牛の方が身近で、よく水遣りや田圃での運動係をさせられました。

子牛(「べんた」といいましたね)は人に馴れやすい習性のようで、大好きな動物でした。

大社にお参りした時には「牛さん」に触れるようにしています。

何でも頭がよくなるとか。  


今岡[加茂]

 
 

まや は 農家のうしのわ(内庭)を隔てた側にしつらえてあり 牛を飼ってありました

そこで敷いていた藁を敷き替えて まやごえ にしていたものです。

勿論今でもそうでしょうが 最も効き目のある堆肥なのですね。

はんぎり というのは 餌を入れる桶のことですが それが つきものでした。
 

児玉[横田]

 

表紙ページ

 

やまあがり

今日の相手は亀嵩の方で、今は松江に住んでおられます。

話が新田次郎から山の話になり、彼のふるさとの玉峰山や三郡山の話になり、私が「登ったことがあーかね」と聞きました。

彼は「子供の頃、弁当を持って友達とやまあがりしょったわ」と。

私「へー、やまあがり ねぇー。やまのぼり てて いわんだ?」

彼「いやー・・・。やまあがり てて いいよったの」

私「おもしろいね、仁多弁だーか?」

彼「さぁー・・?」

雲南地方独特の言い方なんでしょうか。

こだまさん、どうですか?。

 

松尾[湖陵]
 


こちらでは確かに山登りのことをやまあがりと言っていましたね。

今でも言うかもしれませんが私の記憶では過去形です。

しかし言われてみると懐かしい。

「やまあがりでもして ちーと気晴らしでもしょうや」など。

 

児玉[横田]



やまあがり・・・・・。

大変懐かしいことばを聞かせていただきました。

雪がなくなって、暖かくなるころ、弁当をもって子どもたちがみんなで山に遊びにいくので、子ども心にもわくわくした思い出があります。

現代でいえば、いわばピクニックといえると思います。

山のない地域では無理としても、仁多以外の地域ではあまりつかわないのでしょうか?



森田[仁多]

 

懐かしい言葉が出てきて本当に懐かしいです。

やまーがりってどんな字を書くのかなーと子供の頃考えていました。

「山上がり」でしょうかね。

 

石原[仁多]


 

表紙ページ

 

そかえご

太平洋戦争の末期、戦争の災禍を避けるため大都市の国民学校児童を、農山村地域に集団的に移住させる措置、いわゆる学童疎開が、国家により強制的に実施された。


昭和19年(1944年)9月、郷里・大原郡(現雲南市)加茂町に、大阪・江戸堀国民学校の4年生43名がやってきて、町内のお寺で集団疎開生活を始めた。

彼らのことを当時、地の者は「そかえご(疎開ご)」または「そかえもん(疎開者)」と呼んで、遠くから物珍しげに観察した。

地の悪童にとっても、初めて接する異文化であり、わけても彼らの大阪弁は、出雲弁しか知らない「ざえごたら(田舎者)」にとっては、異国語に近かった。

「そかえご」の日常は、ノミ・シラミ・寝小便、それに空腹との戦いであったという。

そこらあたりの事情は、「そかえご」のひとり、奥田継夫君が当時の体験をもとに著した小説「ボクちゃんの戦場」(1969年・第T刷・理論社。この作品は後、映画化された)に詳しい。

「そかえご」が出雲弁と言えるのかどうかは別にして、郷里の歴史のある時期に、この言葉が実在していたことだけは、記録に留めておく必要があるように思う。

なぜなら、このことば、あの忌まわしい戦争の記憶とともに、まもなく忘れ去られてしまう言葉に思えてならないからである。

 

F・Kato[米子]

表紙ページ

 

ほとほと(小正月の 昼に行われる子供を主体とした地回り行事)」

古語辞典(三省堂)に「ほとほと」という語が載っている。

語意をみると「戸をたたく音」や「斧で木を切る音」。コンコン、トントン。「戸をほとほととうちたたく者出来たり(平家物語)」とある。

この古語の擬音語「ほとほと」をそのままとった行事が中国地方に残っている。

それは一月十五日のいわゆる「小正月」に行われ、内容的には東日本一帯に残っている
「鳥追い行事」と全く同じものである。

小正月の昼、顔を隠し、蓑笠姿になった子供たちが「ほとほと」と唱えながら各家を回り、餅や祝儀を貰う、という行事である。

特徴的なのは別掲の「亥の子さん参いり」や「ふだおっつぁん」のように大声で囃し立てるのではなく、その名のとおり静かでどちらかというとうらさびしいものであったという。

この行事は湖陵の森山さんの提供によるものであるが、その森山さんのお祖母さんによると、腰に穴あき銭を通した縄をぶら下げて歩いたという。

チャラチャラと音を立てながら歩いたものであろうか。

江戸時代なら貰った一文銭だろうが、明治、大正には穴あき銭はないから一種の「鳴らし具」として用いられたものであろう。

サイトによるとこの「ほとほと」は安来や鳥取の生山(日南町)の一部に残っているそうである。

 

  情報提供者 森山[湖陵]
   記録者  (金沢:松江)

<追記>

今私が読んでいる本(島根日日新聞社発行 山陰民俗叢書7)の中に「出雲仁多郡横田地方の正月」として松崎清氏が書いておられます。

正月十四日の行事として、昼間子供たちが歩くのを「ホトホト」、夜に入って若者たちが歩くのを「トロヘン」と言っていた(「出雲民俗」十四号、昭和二十七年二月)、との記述がありました。 (2006年11月23日)

松尾[湖陵]

 

表紙ページ

 

なだあるき

このところ大荒れがつづきます。

しかたなしに家内とともにコタツと相撲を取る毎日でしたが、ふと思いついてなだあるきをしてみました。

この時期(冬)海が大時化のとき、大社から多岐にかけての海岸にベニイカ(アカイカ)やデンボ(カワハギ)など遊泳力の弱い魚が海岸に打ち上げられます。

この正月、三、四、五日の収穫はデンボが十二〜三枚(多い日は二十一枚)を拾いました。

もちろん生きております。

磯釣りや船釣りで釣れるウマヅラハギなどはせいぜい手のひら大なのに、ここで拾うやつは一キロ前後(最大で一・四キロ)の大物ばかりです。

あとで聞いたところでは「ウスバハゲ」という種類ではないかということでした。

なぜここら辺の海岸に ?  と土地の漁師さんに聞いてみましたら、海流のせいでは
なかろうか、とのことでしたが。

私どもの方ではこのことを「なだあるき」と云っております。

「コンブの拾い漁」ならぬ「魚の拾い漁」というわけです。

皆さんも荒れた冬の日の朝にお出かけになってはいかがでしょうか。

ただし、完全な防寒装備と長靴をお忘れなく。

なお、四、五月には「ワカメの拾い漁」もできます。

森山[湖陵]

 

私もベニイカ(アカイカ)を偶然拾ったことがあります。

七〜八十センチくらいのやつでした。

波打ち際で弱ってヨタヨタしていたので膝まで浸かって素手で取りました。

喜び勇んで家に持って帰ったら「あら みょうと(夫婦)でおーもんだけん も一匹おったはずだでや」と云われてがっくり。

でも、とてもおいしかったです。
 

松尾[湖陵]

表紙ページ