出雲のことばと生活 5
出雲弁は暮らしの中で使われ継承されてきました。
貴方の出雲弁を綴ってみませんか。
「お盆に関する言葉」
ぼんだな【盆棚】 ぼんれ【盆礼・ぼんれい】 f−k[加茂]
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「出雲の婚礼用語」
○こーじにん(仲介人。媒酌人。なかうど) ○たのまれこーじ(頼まれこーじ)・やとわれこーじ(雇われこーじ)/森山[湖陵]
○ききあわせ(聞合せ)
○いーのー(結納) ○いーのーびらき(結納開き。花嫁方で行う結納の披露とその祝宴) ○かどで(門出) ○わかれのさかじき(別れの杯)
○かどむかえ
○よめごさんみ(嫁ごさん見・花嫁の顔見) ○じぞさんかちぎ(地蔵さん担ぎ)
○おさめ(収め。酒宴の終わり) ○おさめのさかじき(収めの杯。宴会の最後に順次に廻す大杯)
○ほんきゃく(本客。祝言の主賓や招待客) ○あときゃく(後客。祝言の後に行う祝宴、その招待客)
○かおみせ(顔見せ。花嫁の挨拶回り)
f−k[加茂] <追加> ○にーそく
○きんじょきゃく
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「ごへだ」 年寄りは石炭を「ごへだ」といっていました。 戦時中、湖陵では亜炭という粗悪なものが盛んに採掘されました。 石炭が極度に不足した時期に石炭と混ぜてもやしたそうです。 石炭のように地中深い処ではなく、殆ど地表に近い地下十数メートルからあります。 道路工事などで切り取った崖などで炭層がみかけることがあります。 森山[湖陵] こないだ筑豊へ行ってきましたが、石炭を積んで筑豊から北九州へと遠賀川を下った川舟を五平太舟といったそうです。 ごへだとは多分その辺からきてるのでしょう。 筑豊では石炭のことを「ごへだ」とはいいません。 なぜ。五平太舟というのかは聞けませんでした。 遠藤[大東]
ごへだ、ですが調べてみると、石炭を発見したのが五平太という人だったのだそうです。 遠藤[大東] 江戸時代、瀬戸内では石炭のことを筑豊産を「いしずみ」、肥前産は「五平太」といっていたそうです。 奥野[平田]
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「まや」 納屋は「まや」とも「こや」とも呼んでいたが、強いて言えば牛舎兼用の納屋を「まや」と呼んでいたような気がする。 f−k[加茂]
miyake[東出雲]
我が家でも昔(私が生まれる前)は牛を飼っていたらしく、納屋の片側にその牛の部屋があって「まや」と言っていました。 昔は、牛で田をおこしていたからだと思います。 なんとなく覚えています。あの、毛糸の元になる毛を刈る羊です。 それから、小学生の頃までヤギが居ました。 ヤギの乳搾りは、親の命令でよくやりました。上手いですよ。 松尾[湖陵]
確か、牛の部屋(部屋と言う言い方も変ですが)の前には、藁をトントン叩く台がありましたし、家畜も農作業も農機具置き場も、母屋と離れた建物に一括して有りましたから、総称として「まや」と言っていたのかもしれません。 松尾[湖陵]
やはり、作業場としての要素は不可欠のように感じます。玉湯町の私の祖父母宅が農家で、まや と呼ばれる2階建ての建物の1階部分の奥に牛がおり、その横に牛の餌になる草が積まれていました。 手前には 作業をする広いスペースがあり、耕運機・農耕具・ねこ車・藁を叩く台や切る道具・蓑などが置かれていました。 1階部分は収納をすると言うより 作業をする場、という感じだった気がします。 冬に 手がこちけて てごが出来ん、と文句を言うと「まや肥えん中に手突っ込んじょれ」と言われました。 miyake[東出雲]
我が家では、牛と農機具を一階に、藁を二階にという具合でした。 嘗ては馬を飼っていたのでしょうが、農耕には牛が適していたのだと思います。 田舎育ちの私にとっては馬より牛の方が身近で、よく水遣りや田圃での運動係をさせられました。 子牛(「べんた」といいましたね)は人に馴れやすい習性のようで、大好きな動物でした。 大社にお参りした時には「牛さん」に触れるようにしています。 何でも頭がよくなるとか。
まや は 農家のうしのわ(内庭)を隔てた側にしつらえてあり 牛を飼ってありました。 そこで敷いていた藁を敷き替えて まやごえ にしていたものです。 勿論今でもそうでしょうが 最も効き目のある堆肥なのですね。 はんぎり というのは 餌を入れる桶のことですが それが つきものでした。 児玉[横田]
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「やまあがり」 今日の相手は亀嵩の方で、今は松江に住んでおられます。 話が新田次郎から山の話になり、彼のふるさとの玉峰山や三郡山の話になり、私が「登ったことがあーかね」と聞きました。 彼は「子供の頃、弁当を持って友達とやまあがりしょったわ」と。 私「へー、やまあがり ねぇー。やまのぼり てて いわんだ?」 彼「いやー・・・。やまあがり てて いいよったの」 私「おもしろいね、仁多弁だーか?」 彼「さぁー・・?」 雲南地方独特の言い方なんでしょうか。 こだまさん、どうですか?。 松尾[湖陵]
今でも言うかもしれませんが私の記憶では過去形です。 しかし言われてみると懐かしい。 「やまあがりでもして ちーと気晴らしでもしょうや」など。 児玉[横田]
大変懐かしいことばを聞かせていただきました。 雪がなくなって、暖かくなるころ、弁当をもって子どもたちがみんなで山に遊びにいくので、子ども心にもわくわくした思い出があります。 現代でいえば、いわばピクニックといえると思います。
懐かしい言葉が出てきて本当に懐かしいです。 やまーがりってどんな字を書くのかなーと子供の頃考えていました。 「山上がり」でしょうかね。 石原[仁多]
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「そかえご」 太平洋戦争の末期、戦争の災禍を避けるため大都市の国民学校児童を、農山村地域に集団的に移住させる措置、いわゆる学童疎開が、国家により強制的に実施された。 昭和19年(1944年)9月、郷里・大原郡(現雲南市)加茂町に、大阪・江戸堀国民学校の4年生43名がやってきて、町内のお寺で集団疎開生活を始めた。 彼らのことを当時、地の者は「そかえご(疎開ご)」または「そかえもん(疎開者)」と呼んで、遠くから物珍しげに観察した。 地の悪童にとっても、初めて接する異文化であり、わけても彼らの大阪弁は、出雲弁しか知らない「ざえごたら(田舎者)」にとっては、異国語に近かった。
そこらあたりの事情は、「そかえご」のひとり、奥田継夫君が当時の体験をもとに著した小説「ボクちゃんの戦場」(1969年・第T刷・理論社。この作品は後、映画化された)に詳しい。 なぜなら、このことば、あの忌まわしい戦争の記憶とともに、まもなく忘れ去られてしまう言葉に思えてならないからである。 F・Kato[米子]
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「ほとほと(小正月の
昼に行われる子供を主体とした地回り行事)」 古語辞典(三省堂)に「ほとほと」という語が載っている。
語意をみると「戸をたたく音」や「斧で木を切る音」。コンコン、トントン。「戸をほとほととうちたたく者出来たり(平家物語)」とある。 それは一月十五日のいわゆる「小正月」に行われ、内容的には東日本一帯に残っている
特徴的なのは別掲の「亥の子さん参いり」や「ふだおっつぁん」のように大声で囃し立てるのではなく、その名のとおり静かでどちらかというとうらさびしいものであったという。 チャラチャラと音を立てながら歩いたものであろうか。 江戸時代なら貰った一文銭だろうが、明治、大正には穴あき銭はないから一種の「鳴らし具」として用いられたものであろう。
情報提供者 森山[湖陵] <追記> 今私が読んでいる本(島根日日新聞社発行 山陰民俗叢書7)の中に「出雲仁多郡横田地方の正月」として松崎清氏が書いておられます。 正月十四日の行事として、昼間子供たちが歩くのを「ホトホト」、夜に入って若者たちが歩くのを「トロヘン」と言っていた(「出雲民俗」十四号、昭和二十七年二月)、との記述がありました。 (2006年11月23日) 松尾[湖陵]
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「なだあるき」 このところ大荒れがつづきます。 しかたなしに家内とともにコタツと相撲を取る毎日でしたが、ふと思いついてなだあるきをしてみました。 この時期(冬)海が大時化のとき、大社から多岐にかけての海岸にベニイカ(アカイカ)やデンボ(カワハギ)など遊泳力の弱い魚が海岸に打ち上げられます。 この正月、三、四、五日の収穫はデンボが十二〜三枚(多い日は二十一枚)を拾いました。 もちろん生きております。 磯釣りや船釣りで釣れるウマヅラハギなどはせいぜい手のひら大なのに、ここで拾うやつは一キロ前後(最大で一・四キロ)の大物ばかりです。 あとで聞いたところでは「ウスバハゲ」という種類ではないかということでした。 なぜここら辺の海岸に ? と土地の漁師さんに聞いてみましたら、海流のせいでは 私どもの方ではこのことを「なだあるき」と云っております。 「コンブの拾い漁」ならぬ「魚の拾い漁」というわけです。 皆さんも荒れた冬の日の朝にお出かけになってはいかがでしょうか。 ただし、完全な防寒装備と長靴をお忘れなく。 なお、四、五月には「ワカメの拾い漁」もできます。 森山[湖陵] 私もベニイカ(アカイカ)を偶然拾ったことがあります。 七〜八十センチくらいのやつでした。 波打ち際で弱ってヨタヨタしていたので膝まで浸かって素手で取りました。 喜び勇んで家に持って帰ったら「あら みょうと(夫婦)でおーもんだけん も一匹おったはずだでや」と云われてがっくり。 でも、とてもおいしかったです。 松尾[湖陵]
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