出雲のことばと生活 7

 出雲弁は暮らしの中で使われ継承されてきました。
 貴方の出雲弁を綴ってみませんか。

 

 

ちりをたてー(る)

稲穂の交じった藁屑を風で選り分ける(風選する)ことです。

え かぜ だけん えまんおち ね ちりをたてー だが(いい風だから 今のうちに 稲穂の交じった藁屑を風で選り分けるん だよ)」

「ちり(塵)を立てる」の出雲訛りで、「ちり」は、「稲穂の交じった芥」(島根県方言辞典)のことです。「ちりたて」は、風上に立って、「ちり」を【いたみ(いため)】(板で作った箕)に入れ、目平に挙げ、少しずつ落として風選(ふうせん)する作業です。軽い藁屑は風によって遠くに飛ばされ、重い稲穂や籾は足元に集まります。麦や豆類の選り分けにもこの方法を用いました。

子供のころ、作業小屋の片隅に、古い脱穀用具のセンバ(千歯)や麦打ち台(麦の穂を打つスノコ状の竹の台)がまだ残っていました。
大正三年(1914年)に発明された東出雲町の「サトー式稲麦扱機」が普及するまでは、稲はセンバ(千歯)で「せんば扱ぎ」し、麦は麦打ち台で脱穀し、豆類は棒切れや「よこじち(横槌)」で叩いて実を取り出していました。

その後、足踏み式の「サトー式稲麦扱機」が普及し、子供の頃には「サトー式稲麦扱機」が主流となり、稲、麦の脱穀作業は昔に比べたら随分効率的になり、楽になっていました。しかし、豆類は以前のままでした。

「サトー式稲麦扱機」で脱穀した籾と藁屑を「ちりをたてて」選り分け、更には【トーミ(唐箕)】(鼓胴内部に設けた翼車の風力で、上部の漏斗状の受入器から落下する穀粒などと夾雑物とを選別する農機具)や【マンゴク(万石)】(傾斜した金網の上を滑らせて、良質の玄米と屑米、籾等を選り分ける農機具)で選別作業を行いました。

昔の農作業は、随分と手間ひまかけていました。それだけに、子供も貴重な【てま(手間)】(労働力)でした。

 

f-k[加茂]

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えもあめ

昔、 戦争も益々激しくなり、極端に物資不足で贅沢品の砂糖などすっかり姿を消したことがありました。

農家では家にある材料で、砂糖の代用品とまではゆきませんが、甘味料として「えもあめ(芋飴)」を作りました。

今でも製法を覚えています。

蒸した芋を潰し水を加え、麦芽(大麦を発芽させ粉砕したもの)を混ぜ、一昼夜糖化させ絞り、液を煮詰めると出来上がりです。

和尚さんの留守に、小僧さんがこっそり壺の飴を舐める話そっくりに、親の留守を幸いに戸棚の飴壺に箸を突っ込み、くるくると回して舐めた懐かしい思い出があります。

「えもあめ」は独特の匂いがあります。

その味を懐かしく思う人が多く、ご婦人方が当地特産の湖陵町西浜のサツマイモで作り、販売される予定です。

 

森山[湖陵]

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出雲の厠ことば

出雲弁の厠ことばの代表格、【せんち】【ちょーじ】、それに【しょんべし】も、今ではあまり聞かれなくなり、【トイレ】がごく普通になってしまいました。

これらの方言もまもなく「死語」となってしまうのかも知れません。

【せんち】は「せっちん(雪隠)」の転。

【ちょーじ】は「ちょーず(手水)」の出雲訛り。

共に広辞苑にも載っており、全国的にかなり広い範囲で使われている方言です。

共通語は「便所・厠」ですが、出雲地方、特に農村部ではこの二つは、共に「大便所」を指して使われていたと思います。

というのも、農村部では糞尿を貯め置いて【しもごえ(下肥)】として再利用するため、その汚臭対策、および農作業の途中、土足で出入りする必要性から、「大便所」は母屋とは別棟の小屋に設け、これを【せんち】または【ちょーじ】、または【ちょーじば】あるいは【おんこし】と呼んでいました。

設置場所は、家相の吉方を選び、おおむね母屋のつま(妻)側か後ろ側でした。

【せんち】と【ちょーじ】の使い分け、使用頻度では、【せんち】の方がやや多数派であったように思います。

また、【おんこし】は、島根県方言辞典には「幼児語」として掲載されていますが、幼児以外にも普通に使っていたように思います。

「小便所」は、屋内、屋外での用便に備え、母屋の入り口付近に設けるのが一般的で、これを【しょんべし】と呼んでいました。

もっとも、農村部でも【おやかたし(地主・素封家などの上流家庭)】の家では、母屋に来客用の便所を別に設けていました。

これは【かみのま(客間・奥の間)】に続く外縁に張り出して床張りの便所を設け、これを【かみ(ん)ぜんち】と呼んでいました。

【かみのま】は、【かみ(ん)じゃしき(上座敷)】という言い方もありました。

別棟の大便所には、直径1・5m位いの陶器製の【おりおけ(おり桶)】【あとおけ(あと桶)】が埋め込んであり、【おりおけ】に二枚の踏み板を渡して用便しました。

【おりおけ】が一杯になると、長い柄の付いた【こえふしゃく(肥柄杓)】で汲み取り、【あとおけ】に移し、時にはここに【たなへじ(台所の汚水)】を雑ぜて腐敗・発酵を促した上で、【しもごえ】として【こえたが】で田畑に運び、肥料として利用し、あるいは田畑に設けた【こえため(肥溜め)】にストックして置きました。

【おりおけ】に渡した踏み板の前面、または側面に、用便中の安全対策として、「手すり」の機能を持たせた【さばーぎ(さばり木)】を設けている家もありました。

用便後の便所紙は、【おとしがん】または【せんちがん(せんち紙)】と呼び、古新聞や古雑誌を再利用しました。

もっとも、紙は古来貴重品であったため、農家で古紙を使うようになったのは明治の末ごろからのことのようで、古くは【おとしわら(紙の代わりの便所用の藁)】【えのこかずら(蔦)】の葉、「蕗の葉」「桐の葉」などの自然素材に頼っていたそうです。

ちなみに、島根県方言辞典には、【おとしわら】が「廃語」として掲載されています。

夏場には、【おりおけ】や【あとおけ】はもとより、そこらあたりに【おじ(蛆)】が【おごおご】這いずり回っていました。

ちなみに【おごおご】は、@子どもが寝床で体を動かすさま A(蛆など)小さいものがたくさん集まってうごめくさま B重い荷物を負って歩くさま Cゆっくり動くさま などを表すときに使った出雲弁です。

今どきの子どもには、当時の【おじ】の状況は想像も出来ないでしょうし、実際に遭遇したとしたら、一目散に逃げ出すに違いありません。

なお、泉辞書には「うじ虫」が【おながじ】で登録されていますが、こらは多分、尾の長い蛆「オナガウジ」の転であろうと思います。

「オナガウジ」は「ハナアブ(花虻)」(ハエ目ハナアブ科)の幼虫で、蝿の幼虫の蛆とは異なるようです。

【せんち】【ちょーじ】には、戦後しばらくまでは照明装置がないのが一般的で、夜の用便はおおむね手探り、足探り。

よほど暗い時には提灯やローソクを点しました。子どもにとって、夜の用便は本当に心細く、まさに【肝試し】そのものでした。

【からさでさん(神等去出さん)】の晩に【せんち】【ちょーじ】に行くと神様に箒で尻を撫でられると言われ、用便を控えました。

また、亡祖母は、【からさでさん】の頃には「かんさんとぼちかーとえけん(神さんとぶつかるといけない)」からと、大便所の入り口でノック代わりの咳払いし、神様に合図を送った上で用便を済ませていました。

また、【せんち】【ちょーじ】には【せんちがんさん(せんち神様)】が信じられ、榊を立てたり、大晦日に灯明をあげて拝む家もありました。

【しょんべし】には【しょんべつぼ(小便壷)】を埋め込み、その上を踏み板で覆い、壁側に便器を立てかけて用便しました。【しょんべし】には男子用、女子用の区別は特にありませんでしたが、戦前、農家の女性は「ノーズロ」に「こしまき」でしたから、「おばば」や「おかか」はひょいとお尻をめくって、上手に【たちしょんべ(立小便)】をしていました。

また、子どもたちはふざけて、わざと【ちれしょんべ(つれ小便)】して遊んだりしました。

小便が溢れ出るころ、【しょんべたが】で田畑に運び、【しもごえ】として利用しました。

古い出雲は、エコ社会そのものでした。

f-k[加茂]

 

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「しまえし」

大根島産の石材を通称「島石」と呼んでいます。

松江市八束町大根島産の堅硬多孔質玄武岩です。

岩肌にブツブツとした穴の開いた堅硬多孔質の玄武岩で、出雲地方では高級な石材として、来待石とともに珍重されています。

「島石」の用例は、地元大根島・「由志園」のガイドブックや、出雲市・「ガーデンさくら」の営業案内で見かけましたが、いずれにしろ出雲地方だけに通用する呼び名です 。

用 例   しまえ(い)し の にわ も なかなか えもん だじね
用例訳  大根島産の石材の(を使った)庭も なかなか 好いものだよ

f-k[加茂]

 

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「あきんどのはやもどり(商人の早戻り)」  

商い繁盛

耕地が少なく百姓は年寄りや女房に任せ、男が商いで生計をたてます。

それも店舗を構えてではなく、大半が一っ荷商人(行商)で、呉服や衣類、浜に揚がった鮮魚などの商いが多かったですね。

大きな風呂敷を背負った呉服屋さんや、天秤棒が弓なりになるほど魚を担ぎ、掛け声勇ましい魚売りの得意先廻りするのが昭和三十年代ぐらいまで盛んでした。

森山[湖陵]

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 こえまつ(ち)」

戦時中(1940〜1945年)は、ガソリン等の燃料が極度に不足していました。

その対策が、【しょーこんゆ・松根油】の原料となる【まつやに】や【こえまつ・肥松】の供出でした。

【まつやに】は、ゴムの樹液採取のように、松の幹に筋状の切れ込みを入れ、染み出る「やに」を、幹に取り付けたカンガラで受けて集めました。

これは主に、女子供の仕事でした。

【こえまつ】は、部落単位、学校単位に何がしかの供出目標が割り当てられ、中高生だけでなく、われわれ学童も山に入って【こえまつ】の掘り出しに精を出しました。

陸・海軍の兵隊さんも、演習を兼ねて、駆り出されていたようです。

【しょーこんゆ】は、わが国独自開発の、特異臭のある無色の液体燃料です。

日本国語大辞典によると、明治4年(1871年)の「新聞雑誌16号」に「岸和田県・水島善一郎発明にて松根油(コヘマツアブラ)を新製せり」とあるそうですが、その技術を戦時中に再び利用したものだと思います。飛行機燃料が主な目的です。

これ等国民総動員の努力にもかかわらず、昭和20年(1945年)、わが国は敗戦の日を迎えてしまいました。

f-k[加茂]


【こえまつ】 と聞けば一番先に頭に浮かぶのは、土中に「おまって」いる松の切り株の、「しらて」が腐って「さえ」だけになっている根っこです

松材芯材は「松のさえ」で【こえまつ】とは私達は言いません。

仰るように戦時中は盛んに掘られ、職業にする人もいましが、お上から隣保に割り当てがあったらしく親父たちが多人数で山え堀に行きました。

本町にも施設があり、抽出は朝鮮の人がやっていました。

真っ黒な廃油のようなものでしたが、精製すれば飛行機燃料になりましたかねー。

悪童もよく利用しました。

棒の先に金網を吊るし、小さく割った【こえまつ】を燃やし「よぼり(既戴)」に使います。

一度火がついたら少々の風や小雨で絶対消えません。

森山[湖陵]

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きのみ(椿)

牧野本によれば、「椿」を【きのみ】、「椿油」を【きのみあぶら】と言うそうですが、我が家では単に【ちばき】【ちばきあぶら】と言っていました。

牧野本の方言区分は出雲・簸川郡方面なのでしょうか。あるいは我が家だけの呼び名だったのでしょうか。

我が家の風除けの「屋敷囲い」には、藪椿の大木がぎっしり植えられており、椿油作りは、祖母の重要な年中行事の一つでした。

椿の実を拾うのは子供の仕事でした。

拾った実は天日干ししたあと、【ほーろく(焙烙)】で炒り石臼で搗いて実を細かく粉砕します。

それを大釜鍋で水と一緒にグツグツと煮込みます。

しばらくすると、油分が表層に浮かんできます。その油分だけを、貝杓子で丹念に掬い取ります。

この作業を繰り返し、油分の濃度を高めつつ精製していました。

椿油は、女性の整髪用のほか、炒め物や天婦羅油などに使っていました。

祖母の椿油作りは、近所でも評判でしたから、椿の実を持ち込んで精製を依頼されたり、毎年、製品を予約する人もありました。

毎年一升瓶で2〜3本作っていたように思います。

油が貴重な時代のこと、出来立ての油をご近所にお裾分けすると、大変よろこばれたりもいたしました。

f-k[加茂]

 

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ごろた(アブラギリ)

出雲大社の裏山に沢山植えられており、戦時中 その実から油をしぼったそうです。

番傘や提灯に塗り、紙の強度を高めました。

採取者  松井[大社]

 

「大東町誌」(1971年刊)に「〜ゴロタというのは、青桐のことで、海潮地区を中心に山間部の山で多量に栽培されており(明治末でも海潮に約200町歩あった)、その畑を「木の実畑(このみはた)」と呼び、ゴロタの実を拾い、煎って搾油した」と見えます。

近在では【ごろた】が使われていたのは間違いないようです。

f-k[加茂]

 

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