鵜峠・鷺浦(大社町)

鵜峠(うど)と鷺浦を合わせて鵜鷺(うさぎ)地区といいます。

この地区の鉱山は明治の初め頃から銅鉱を掘って鵜峠の港から出していました。

最盛期には長屋がたて込み約1,000人が住んでいたといわれています。

昭和14年に索道施設ができてからは鷺浦港から搬出したそうです。

この地区は、隣の平田市唐川地区同様、昔から銅鉱の産地でした。


鷺浦港は天然の良港で宇竜港とともに北前船の寄港地として栄えてきました。

河口付近には伊奈西波岐(いなせはぎ)神社が有ります。

国譲り談判の際、美保関で魚を捕っていた事代主命(大国主命の子:コトシロヌシノミコト)に、船で大国主命の意向を伝えに行った神稲背脛命(イナセハギノミコト)が祭られています。

なお、美保関町の諸手舟(もろたぶね)神事はこれに由来します。


(注1)荒神谷や加茂岩倉の銅製品と唐川・鵜鷺の銅
当時の製法技術では、銅剣1本に銅鉱石が約50トン必要であったともいわれています。この近辺に、そんなに大量の銅鉱石が存在したとは思えませんが・・・。

(注2)北前舟と鷺浦
1670年頃、幕府御城米を江戸に回送させる、西回り日本海航路が河村瑞賢により開発されました。その後の1,750年頃から蝦夷地と大阪を結び独自の商いをおこなう北前舟が発達してきました。
浄土真宗本願寺派(西本願寺)鷺浦説教所資料によると、同庵石御仏壇建立にさいして北前舟船頭275件の寄進記録があるそうです。(大社町史研究紀要3:鷺浦の真宗と北前舟〔藤沢秀晴寄稿〕より)
後には、磯伝いの地乗りと共に西郷港等を寄港地とする「沖乗り航路」が盛んになりました。

(注3)河村瑞賢の航路と官営寄港地
小木(佐渡)・福浦(能登)・柴山(但馬)・温泉津(岩見)・下関(長州)・大阪(摂津)・大島(紀伊)・方座(伊勢)・畔乗(志摩)・下田(伊豆)

(注4)稲背脛命(イナセハギのミコト:日本書紀名)
天夷鳥命、天鳥船命(古事記名)とも記され、鳥のように早い船の神で、高天原から国譲りの談判に来たタケミカズチのミコトと一緒に稲佐の浜に来ました。


   撮影年月日:平成12年7月16日
   撮影場所  :鵜鷺地区(大社町)
   撮影者   :奥野
   解説     :奥野

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