震災後の朝日山にのぼる

 中越地震の震源地にも近く、地震による史跡への影響が気になっていた朝日山に登ってみた。被災後1年半が経ち、朝日山古戦場の史跡保存を行っている浦柄のホームページで復興の状況はある程度わかっていたことと、当日の天候が穏やかだったので登ってみようと思った。
山頂に着くまでの間に、畑仕事や山菜取りなどをしている地元の人に何人かあった。とはいえ万一のことを考え携帯電話の感度には注意を払った。

 浦柄神社の少し先で車を止め、積んである折りたたみ自転車を出した。農道はかなり急傾斜なので押しながら登った。しばらく進むと突然道が数百mの範囲で大きく崩落していた。史跡保存会の皆さんが崩落後に山頂への旧道を開いたという情報をホームページで知っていたので、畑仕事のおばさんに道を聞いた。会津の戦死者を守ってきた土地柄か、とても親切に教えてくれた。崩落でサトイモ畑がそっくり埋まってしまったとか、やさしそうな表情のおばさんで思わず同情してしまう。

 農道から山道に分岐するところに朝日山への標識が建っていたので、たぶんこれが復活した旧道なのだろう。そこで押してきた自転車を置き、今度は徒歩で山道を登り始める。旧道からふたたび崩落先の農道(林道か)と合流する所に、白虎隊新国英之助(16歳)の墓があった。説明文によると英之助は父と共に朝日山の激戦に加わり、そこで壮烈な戦死を遂げた。父は我が子の冥福を祈り墓を建て毎年墓参りに来たが、33回忌が済んでからは浦柄の村人にたくした。約1時間位歩いただろうか、危険な箇所もなく無事に頂上についた。
朝日山はこの付近では最も高い山で、遠くに地震で崩落し岩肌がむき出しになったいる現場があちこちに見えた。
農道が突然崩落している 白虎隊新国英之助(16歳)の墓 山頂に建つ朝日山古戦場の碑

 山頂は県立自然公園の朝日山休憩展望所になっており、記念館屋上からは小千谷と長岡方面がよく見える。北越戦争で朝日山が戦略的に重要な位置と気づき、同盟軍と新政府軍が激しい争奪戦を繰り広げたのが判る。山頂を制した同盟軍は大砲を山頂に据え、ここから新政府軍の陣地を砲撃したという。
山頂に小千谷市と小千谷市教育委員会の朝日山古戦場の説明文があった。

「朝日山古戦場の由来」
 明治戊辰の5月2日、小千谷、寺町の慈眼寺に、本陣を置いた、征討軍軍監岩村精一郎と、長岡藩家老河井継之助の会見、いわゆる「小千谷談判」の決裂に端を発し、征討軍と同盟軍の死闘の舞台となったのがこの朝日山古戦場である。
 当時、征討軍軍監岩村精一郎は弱冠24歳、長岡藩家老河井継之助は42歳であった。談判決裂となるや、この山頂に砲台を構えて守備していた長岡藩安田隊並びに会、桑二藩兵に対し、征討軍は時山直八の率いる長州奇兵隊200人を以て5月13日夜明けの濃霧に乗じ奇襲攻撃をかけた。
 時に主力の長岡藩安田隊は夜間の事とて、若干防備を手抜いていたところを不意突かれ、俄の喊声銃声にあわてて戦備を整い応戦した。闘数刻やがて濃霧が晴れるや西軍指揮官時山直八は桑名藩三木重左エ門の狙撃にあい遂に戦死し、その他多数の死傷者を出し、全軍退却の己むなきに至り、この奇襲作戦は完全に失敗した。以後両軍とも譲らず持久戦となった。
 時にこの方面における東軍の軍勢五千に対し、西軍は1万余、しかもその主力薩長は最新式7連発スペンサー銃、これに対し東軍のそれはまことに火器旧式のものであったが、死を決した防戦の結果、なかなか終結に至らず、5月13日から19日までの朝日山、榎峠、妙見方面の戦には両軍の大砲小銃の響きに昼夜間断なく、両軍とも死人怪我人多く言語に絶する惨状であった。
 時あたかも信濃川は歴史的の大洪水で、雨天曇天続き夜間星影もなく、寒冷のために征討軍の困憊はその極に達した。北陸道先鋒総督府の参謀山県狂介が次の和歌を詠んだのは実にこの時の戦いであった。
「あだ守るとりでのかがり影ふけて、夏も身にしむ越の山風」
 攻撃に難を感じた征討軍は作戦を変え、直接長岡城をめざし、信濃川西岸を進攻した。
 激戦の末、やがて西軍による長岡城の炎上攻略を察知した東軍は悲劇の退却となり敵の追撃を避けるために、日暮れを待って、秘かに後退し、会津方面に逃れたと伝えられる。
 今なおこの山上には当時を偲ぶ塹壕の跡も遺っている。

                                  小千谷市

「朝日山古戦場」
 この地は、もともと大平木(大開)と称していたが、北越戊辰戦争の激戦地であることから、朝日山と称されるようになった。一説には麓から見上げた西軍兵が、山頂に輝く朝日を見たので名づけたというが定かでない。
 時に慶応4年(1868)5月10日、三国街道の榎峠で始まった戦いは、翌11日午後3時ころから、朝日山の争奪戦となった。その間にあった浦柄の集落には、火が放たれ、村人は逃げまどった。
 東軍は長岡・会津・桑名藩兵と衝鉾隊。西軍は薩摩・長州両藩兵と信越諸藩の兵。雨中、山頂を制したのは東軍兵であった。早速、大砲をあげ、麓の西軍兵を砲撃した。
 5月13日、早朝、長州藩参謀時山直八は奇兵隊を率い、朝日山を攻撃した。しかし桑名藩雷神隊長立見鑑三郎らの逆襲に会い落命した。西軍参謀山県狂介は、時山の首級と対面し落涙したという。
 朝日山争奪戦は、北越戊辰戦争のなかでも人の心に残る戦いであった。それはまた、古戦場を持つ浦柄の人びとの心をうつものであった。戦後、自発的に戦場を整理し、保存運動を行った。浦柄史跡保存会は、今も慰霊の祈りを欠かさず、その事跡を心に刻む。
                                   小千谷市教育委員会

古戦場の山頂に建つ記念館 朝日山古戦場の説明文 記念館屋上から小千谷方面
下を流れる信濃川 下流の小千谷から長岡方面 木立に隠れた南側方面

 古戦場にはたくさんの山野草が咲いていた。当日は山菜採りなどで地元の人も多く、視界もよく道に迷う心配はなかった。しかしまだ復旧途上のため、地元の情報を集めてから登ることをお勧めしたい。
(この直後に全国のボランティアにより旧道が復旧し、登山が可能になった)
山頂にはっきり残る塹壕跡 塹壕に咲くオオイワカガミ 可憐なチゴユリ
白い花が特徴のトキワイカリソウ ホオノキに巻き付く藤 一面に咲いたオオバキスミレ
下山途中で崩落現場の少し手前 農道崩落の現場を上側から見る 新しい道も整備されつつある

 浦柄神社

 戊辰戦争が終わると、明治政府は同盟軍の遺体を取り片付けることを禁じた。中でも会津藩に対して厳しくあたり、遺体は山野に朽ち果てた。これを見た浦柄の人びとは遺体を手厚く葬り、22基の石碑を建立し英霊を弔った。
今でも浦柄には史跡朝日山を守る史跡保存会があり、墓地や史跡を大切に守り伝えている。
浦柄はまだ復興途上にあり、神社の鳥居も落ちたままで、神社の境内も青いシートで覆われている。でも会津藩士の墓地は綺麗に整備されていた。これは船岡山の新政府軍墓地でも同じであった。

小千谷の浦柄神社 戊辰戦蹟記念碑(山本五十六書) 浦柄神社の会津藩墓地
朝日山殉難者墓碑 鳥居は壊れたまま 浦柄集落と奥は上越新幹線

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