“慈眼寺のホームページ”元管理人のひとりごと”
慈眼寺『会見の間』の復興を支援する東京のボランティアです。
慈眼寺(復興の記録) |
船岡山慈眼寺 | 河井継之助 | 会見の間 | 岩村精一郎 |
nagaoka2009@yahoo.co.jp | (元管理人へのメール) |
頑張れ!阪神タイガース | ||||
2018年のセリーグのペナントレースで、我が阪神は「セパ交流戦」終了時点で4位である。後半戦の成績次第では、まだ上位が狙える位置にある。河井継之助の教え子である外山寅太(脩造)ゆかりの阪神タイガースに声援を送ろう。(前回の優勝の後には、星野監督は栃尾で講演しているんですよ) |
『会見の間』ゆかりの自治体 |
(自治体にリンク) | 管理人のひとりごと |
小千谷市 (新潟県) |
慈眼寺会見の間、東軍と西軍の激戦地である榎峠、朝日山、雪峠などの古戦場がよく知られている。司馬遼太郎の『峠』記念碑は越の大橋西詰めにある。 船岡山には薩摩、長州の戦死者墓碑も沢山あり、戊辰後、百数十年の間、同盟軍、新政府軍に対して、分け隔てのない、多くの小千谷市民により大切に守られてきた。 小千谷市から一つ山を越えた所が、長州毛利家や勝海舟の祖先の出身地である。 司馬遼太郎『峠』文学碑 西軍聴かず我がねがい「長岡城の歌」 越の大橋と『峠』文学碑 錦鯉と片貝祭り 間にあわなかった山県狂介 『峠』文学碑に立つ お盆の小千谷を歩く 錦鯉の初せり始まる(写真) 男爵になった岩村精一郎 会談決裂、激突!榎峠 震災後の朝日山にのぼる 司馬遼太郎「峠」発刊におもう 司馬遼太郎の慈眼寺と榎峠 司馬遼太郎「峠」の世界(週刊朝日連載) 河井継之助愛用の蓮月尼の茶碗 140年ぶりに慈眼寺に戻る(二見虎三郎) 山田方谷書「己欲達先達人」 司馬遼太郎「峠」の自筆原稿が見つかる |
長岡市 (新潟県) |
武装中立をめざした越後長岡藩の城下町。牧野家累代の霊廟は蒼柴神社、初代忠成公菩提寺は普済寺、牧野家および継之助の墓は栄凉寺にある。米百俵、河井継之助邸跡などの戊辰史跡が市内には数多く残されている。 長岡は戊辰戦争、太平洋戦争で二度も灰燼に帰して、城跡や堀跡など何も残っていない不思議な街である。いまの長岡駅が威容を誇っていた長岡城の本丸跡である。 空晴れて家門を護る勝武太刀(山本五十六絶筆の句) 慈眼寺ゆかりの長岡市(写真) 越後の分割統治と幕末の動向 被災した悠久山 雪どけの長岡(写真) 蒼柴の杜よ、蘇れ“桜、さくら” 金峯神社の修復なる 開戦決意の地 長岡藩本陣の光福寺 八丁沖の奇襲 長岡藩がわかる本 新潟に来なかった榎本武揚「幕府艦隊」の謎 河井継之助の年譜とその後 河井継之助が見た京都 国内戦争を憂いた河井継之助 クラーク博士と河井家の末裔 河井継之助を支えた男たち 河井継之助の友だち度ランキング 蒼柴の杜のなりたち 歴代藩主とゆかりの寺社 江戸時代の年号と長岡および国内のできごと 江戸の長岡藩邸めぐり 豪雨で思い起こす減免歎願事件 忠犬“しろ”のものがたり 伊那谷を放浪した井上井月 高杉晋作も愛した銘菓「越乃雪」 中越は日本酒の宝庫 勘三郎が年末ドラマで河井継之助 民は国のもと吏は民のやとい 榎峠古戦場の現状 大胡城と養林寺(大胡町) 2年前のあの日から 河井継之助記念館が開館 山古志の避難指示が全面解除 「常在戦場」の扇子 先生の発言にみる国会の「常在戦場」 全国藩校サミットin長岡(米百俵の精神を全国に) NHK大河ドラマ「天地人」 NHK大河ドラマ「天地人」の配役 越後長岡藩「五間梯子」バッジ 札幌農学校の校長になった長岡藩士(森源三の写真集) 第8回全国藩校サミットin長岡 全国藩校サミットin長岡(視察研修) 2010年度招魂社祭 幻の越後長峰城を歩く 長岡藩抱屋敷 長岡藩藩旗「五間梯子」の由来 西軍本営にあった物見の松 三方領地替え 長岡藩主「牧野家資料館」が開館 長岡開府400年(前編) 長岡開府400年(後編) 殿様日記(牧野忠昌さまの日記です) |
巻町 (新潟県・ 現新潟市) |
慈眼寺での会見が決裂し、武装中立の夢が破れた長岡藩は奥羽列藩同盟に加盟、長岡城攻防戦、会津戦争に参戦した。会津鶴ヶ城が落城し、勇敢に戦った長岡藩もその3日後に降伏した。 三根山藩は、焼け野原になり極度に困窮した長岡藩に、救援の米百俵をおくる。長岡藩の大参事小林虎三郎は、明日の人づくりのために、この米百俵を学校設立に使った。この故事は小泉総理の所信表明演説のむすびに引用され、一躍全国的に知られるようになった。(2005年10月10日新潟市と合併) 小泉総理の所信表明演説(米百俵の引用) 米百俵の学校 佐久間象山の教え子 ツルネンマルテイ米百俵で首相をただす 先生の発言にみる国会の「米百俵」 山本有三の米百俵誕生秘話 米百俵をおくった三根山藩 堀口大学文庫オープン(葉山町) 「米百俵」執筆の地(三鷹市) |
栃尾市 (新潟県・ 現長岡市) |
栃尾は上杉謙信の育った土地、大崎彦助は来伝村、外山寅太は小貫村の庄屋の息子、若い彼らは継之助に、地元の英雄上杉謙信の姿を重ねそして再来を夢見た。継之助は臨終の今際に寅太を呼び「寅や、おまえは商人になれ。
西洋事情に詳しい慶応義塾の福沢諭吉に推挙状を書いてある」、果たせなくなった自分の夢を託した。 阪神電鉄、朝日麦酒、大阪ガスなど、外山脩造と改名した寅太が創った。タイガースの名は社内公募により、工業都市デトロイトにちなんだとするが、初代社長の寅太から採ったに違いない。 (2006年1月1日長岡市と合併) 四十九年一睡夢 一期栄華一盃酒(上杉謙信辞世の詩) 慈眼寺ゆかりの栃尾市(写真) 外山寅太と大崎彦助 阪神タイガース生みの親『外山脩造』 栃尾が生んだ上杉謙信 栃尾の静御前の墓 上杉謙信の養子と御館の乱 牧野家ご当主が栃尾で語る 河井継之助と外山脩造 志のリレー 甲子園にあった外山脩造の銅像 |
豊川市 (愛知県) |
牧野家および長岡藩のふるさとである。源平合戦で源義経を勝利に導いた阿波の田口氏は、兄の頼朝の怒りにふれ一時衰退した。戦国の世に再び牧野氏として台頭したのが豊川である。徳川家康の大名となりこの地を離れるが、豊川の人々が牧野家に寄せる思いは強い。中越地震でもいち早く長岡に駆けつけ絆の深さを示した。2009年、牧野一族展を記念し、ここに登場する。 長岡藩のルーツ牛久保を歩く 山本勘助系図と長岡 参州牛久保の壁書と牛久保小学校 牧野一族展が豊川で開催 牧野家のふるさと(照山城とその周辺) 牧野家のふるさと(牧野城とその周辺) 牧野家のふるさと(牛久保とその周辺) 牧野家のふるさと(今橋城とその周辺) 牧野家のふるさと(豊川稲荷とその周辺) 牧野家のふるさと(御津周辺) |
下田村 (新潟県・ 現三条市) |
八丁沖を渡る奇襲で長岡城を奪回したが、河井総督は負傷し、城も再陥落する。担架に乗せられた河井総督は会津を目指し、栃尾、葎谷を経て吉ヶ平に着く。ここからは一里が十里に相当する八十里越の難所。椿尾根、鞍掛峠、田代平を経由、木ノ根峠で一晩泊り、
只見の入叶津に抜けた。若き大隊長の山本帯刀は危険な殿軍(しんがり)で鞍掛峠を死守、藩士の家族や領民を会津に誘導した。(2005年5月1日三条市と合併) 八十里こしぬけ武士の越す峠(河井継之助) 慈眼寺ゆかりの下田村(写真) 紅葉の八十里越(写真) 八十里越の水芭蕉(写真) 吉ヶ平から八十里越へ |
只見町 (福島県) |
戦いで負傷した河井総督は再起を図るため、八十里越を会津に向かったが塩沢の矢沢宗益宅で亡くなった。矢沢邸は電源開発のダムで水没したが、河井継之助記念館には、遺品や臨終の間が移設され保存されている。
近くの医王寺には村民が残った骨を拾い集めて葬った墓が残っている。河井総督は八十里峠を越えた只見の地で、いまも地元のみなさんに大切にされている。昭和49年に司馬遼太郎が訪れ、継之助が眠る地として最も相応しいと揮毫を残した。 山水相応蒼龍窟(司馬遼太郎) 慈眼寺ゆかりの只見町(写真) 河井継之助終焉の地 |
会津若松市 (福島県) |
幕末の激動期に登場した会津藩主が松平容保である。京都守護職として孝明天皇の信任が厚く、なぜ朝敵の汚名をきせられ、会津は悲劇を迎えることになったのか。 幕末の一時期、京都守護職を松平容保、京都所司代を長岡藩主牧野忠恭が勤めたことがある。会津藩は小千谷、長岡で多くの戦死者をだしている。また長岡藩も会津で勇敢に戦った。戊辰戦争後の会津藩が辿った道を思うと、慈眼寺での会談が決裂したことが残念でならない。 武士(もののふ)の猛き心にくらぶれば数にも入らぬ我が身ながらも(中野竹子辞世の詩) 慈眼寺ゆかりの会津若松市(写真) 朝敵となった会津藩 天皇の信任厚かった松平容保 新選組のふるさと多摩(写真) 土方歳三の生涯 保科正之が残した会津藩の家訓 落花は枝に還らずとも(秋月悌次郎) 白虎隊士から東大総長へ(山川健次郎) 新選組のふるさと多摩(U) 会津に告げよ武士の死を(小出島) 飯寺に散った若き大隊長山本帯刀 痛快!彼岸獅子で入城(山川大蔵) 新発田藩の内応と津川口の陥落 新選組のふるさと多摩(V) 「六道の辻」の長岡藩士の墓 三国街道を歩く(大般若坂) 三国街道を歩く(永井宿と町野久吉の墓) 新選組のふるさと多摩(W)−壷伊勢屋事件− 会津藩菩提寺の萬行寺(小出島U) |
高梁市 (岡山県) |
備中松山藩の老中板倉勝静の城下町。河井継之助は佐久間象山、斉藤拙堂、古賀茶渓などの門に入ったが、継之助が終生の師と仰いだのが、備中松山藩の改革を実践した山田方谷である。上杉鷹山、徳川吉宗などが改革者として著名であるが、真の改革者として幕末の陽明学者山田方谷を押す人が多い。継之助は藩内改革を成し遂げ死の直前まで方谷の教えを忠実に守った。 2005年は方谷の生誕200周年のあたり、市内は各種行事で盛り上がり、方谷の偉大さが全国で見直されている。 碑文(いしぶみ)を書くもはづかし死に後れ(山田方谷) 河井継之助の改革 河井継之助の恩師『山田方谷』 幕末の陽明学者『山田方谷』 河井継之助が登りたかった山(写真) 二松学舎大学vs東洋大学 備中松山(岡山県高梁市) |
鹿児島市 (鹿児島県) |
戊辰をリードした西国の雄である薩摩藩のお膝元。河井総督と岩村軍監が慈眼寺で会談したころ、薩摩藩の参謀黒田了介は、まだ柏崎にあり北上の途上にあった。 河井総督の願いが黒田参謀を通して西郷隆盛に伝わっていれば、別の明治維新を迎えたかも知れない。慈眼寺での和平への会談が決裂したことで薩摩藩も多くの戦死者をだし、その霊はいまも遠く離れた北越の船岡山に眠り、やさしい小千谷市民の花が絶えることがない。 戊辰を演出した薩摩藩 西郷の手の中にあった坂本龍馬 五稜郭の武士道「黒田了介 西郷隆盛と銅像の由来(上野恩賜公園) 薩摩藩邸焼討ちと勝・西郷会見の地 |
萩市 (山口県) |
鎌倉時代、大江広元の孫にあたる毛利経光が佐橋庄を治めていた。領地は柏崎西部から長岡市南部の一帯で、ここが越後毛利、長州毛利の発祥の地になった。勝海舟の先祖もこの地域の柏崎・長鳥の出身である。
河井総督と岩村軍監の会談が決裂したあと、代わって指揮を執った参謀山県狂介に待っていたのは、戊辰戦争の最大の激戦となる長岡城の攻防戦であった。会談が決裂した直後の朝日山、榎峠、妙見の戦いでは奇兵隊の盟友時山直八を失い涙にくれた。 仇(あだ)まもる砦のかがり影ふけて、夏も身にしむ越の山風(山県狂介) 慈眼寺ゆかりの萩市(写真) 尊皇攘夷から倒幕にかわった長州藩 安芸の宮島(写真) 長州に初代長岡市長の碑が 風雲児・高杉晋作 毛利家発祥の地を探る 小泉総理大臣最後の施政方針演説(吉田松陰) 長州8人目の総理大臣 幕末維新祭り(東京の松陰神社) |
柏崎市 (新潟県) |
長州毛利家のふるさと。宝治合戦で相模毛利荘の一族は滅んだが、越後国佐橋荘に毛利経光が生き延びる。これが長州毛利家の繁栄に繋がる。坂本龍馬の先生「勝海舟」の先祖も柏崎。ここは会津藩主松平容保の弟で京都所司代の桑名藩松平定敬の領地。いよいよ海と歴史の宝庫柏崎が2008年、満を持してここに登場する。 毛利家のふるさと佐橋荘 幕末維新祭りに柏崎が初参加 勝海舟の祖先のふるさと杉平(T) 勝海舟の祖先は長鳥村出身の根拠 桑名藩士の柏崎日記と消えゆく墓 NHK大河ドラマ「龍馬伝」(主演発表) 童謡“浜千鳥”(柏崎の思い出) 幻の満州柏崎村 佐橋神社の春季大祭 海に沈む夕陽と祇園祭り 勝海舟の祖先のふるさと杉平(U) 柏崎駅前通りの貞心尼歌碑 親族が書いた評伝「米山検校」 |
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