牧野家のふるさと(照山城とその周辺)


牧野一族の祖先は讃岐から渡ってきたが、家臣団は豊川周辺の地侍が多いようである。家老の稲垣平助家や山本帯刀家など、牛久保の時代には牧野家と同格であり、大胡(前橋市)に移るにあたり、徳川家康の旗本身分のまま牧野家に付けられた与力である。長岡藩の家老家は、稲垣2家、山本家、牧野2家の計5家で構成される。いずれも世襲であるが、時には河井継之助のように一代家老の誕生もあった。
明治以降でも、筆頭家老の稲垣平助家からは「武士の娘」の著書で知られる杉本鉞子や、山本勘助の弟の家系の山本帯刀家からは、山本五十六を生んだことでも知られている。

家老に牧野弥次兵衛家があり、三河時代に牧野家と姻戚になるが、祖先は照山(てりやま)城を築いた牧野筑意と伝わる。今回、牧野一族展に豊川を訪ねたので、弥次兵衛家の末裔とともに、豊川市の東北に位置する一宮と、豊川を挟んだ対岸の照山を歩いてみた。

豊川周辺図(クリックで拡大)

牧野筑意が築いた照山城

賀茂の加納寺入口、この付近に照山城があった
山本勘助の生誕地43の一つである賀茂にある照山城40は、牧野や牛久保一帯で見てきた平城と違い、照山の自然の地形を利用した山城である。加納寺の裏手に回ったが、これほど荒れ果てた城跡を見るのは始めてである。うっそうと茂った竹薮の中に、足を踏み入れることもできないし、周りには無数の墓石の残骸が転がっている。そして城を取り囲むように地蔵が、裏山まで延々と続いている。
竹薮の向こうには大きな堀切があり、さらに城跡は上に広がっているようである。
照山城は牧野弥次兵衛家の祖先牧野筑意が造った城と伝わる。
照山城の敷地内にある加納寺 傾いた地蔵が延々と続く
この人物は誰か かすかに文字が掘られているのがわかる
落葉を取り除くと宝篋印塔の隅飾が出現 こちらも宝篋印塔の玉珠であろう
荒れ果てた竹藪は郭跡か 明らかにわかる堀切の跡

三河国一宮の砥鹿神社

三河一宮砥鹿神社の本殿
次に訪れたのは、古くより三河国の総鎮守として敬われる砥鹿神社(とがじんじゃ)41である。近くの本宮山には「奥宮」がある。ここは以前は一宮町だったが、市町村合併で豊川市になり、豊川稲荷と砥鹿神社の両方を持つ市となった。
豊川稲荷に比べると知名度はイマイチであるが、一宮の名に相応しい規模の神社である。ここの神職は草鹿砥(くさかど)家で、同氏は後述の一宮砦でも出てくる名家である。
神社入口の大鳥居 神門をくぐると正面に本殿
摂社二宮、三宮とモチノキ 巨大なさざれ石と背後にはケヤキの巨木

徳川家康後詰の一宮砦跡

「徳川家康後詰一宮砦址」の碑
砥鹿神社の大鳥居を出て真っ直ぐに進むと、砥鹿神社神職の草鹿砥家の屋敷が続く。この広大な屋敷内に一宮砦跡42がある。桶狭間の戦いの後、今川家と松平(後の徳川)家の抗争が激しくなる。ついに永禄六年(1563)に牛久保城に陣を引いた今川氏真が、1万5千の大群で松平方の一宮砦を包囲した。松平元康(後の徳川家康)は僅か二千の兵で駆け付け、砦の危機を救ったと伝えられている。一宮後詰の戦いと言われ、家康の武勇伝の一つである。
砦跡はそのまま草鹿砥家の屋敷内になり、よく整備された竹林の中に、土塁遺構が良好な状態で残っている。
松平元康(徳川家康)武勇伝の一宮砦跡
竹林の中が砦の屋敷跡の見学 裏手は防御性の高い絶壁

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