上杉謙信の養子と御館の乱


天正6年(1578)に上杉謙信が没し、謙信が生前に後継者を決めなかったことで、二人の養子の景勝と景虎が跡目を争い、「御館の乱(おたてのらん)」が起こった。
景勝が素早く春日山の本丸をおさえ、三の丸の景虎と数ヶ月睨み合っていたが、景虎が府中にある政治拠点の御館に立て篭もったことで長期化し、越後を二分する戦いに拡大した。
越後には柏崎の上条上杉氏や越後毛利氏などの名門一族がいるが、彼らもこの争いに巻き込まれ戦うことになった。
御館は謙信が関東管領上杉憲政の館として造営し、管領職を譲られてからは謙信が政庁として使用していた。

御館跡は御館公園として残るが当時は公園の6倍の規模であった

兄の景虎は頭脳明晰な相模北条家からの養子 弟の景勝は謙信の姉仙桃院の上田長尾家からの養子

御館の乱の前哨戦が始まった春日山に登ってみた。謙信公銅像の脇を進み、奥の駐車場に止める。
ここから三の丸の景虎屋敷はすぐである。さらに二の丸から本丸に登る。景勝屋敷は本丸の裏側(日本海側)に位置する。
景虎屋敷と景勝屋敷の間は、春日山のかなり急な斜面になっていた。

左奥に景勝屋敷、手前に景虎屋敷、そして右手に直江屋敷が見える

今年(2009年)6月、東京・六本木のサントリー美術館で「天地人」展があった。
各地の資料館が持つ国宝級品を含む展示会で、特に目玉は織田信長が謙信に贈った国宝「洛中洛外図屏風」である。この日はすいていたこともあり、1時間近く眺めていたが、狩野永徳による細かな描写に飽きることはなかった。
この展示会で謙信の養子について、かなり詳しい記述が壁に貼ってあった。御館の乱に勝利する景勝と兄の景虎の二人は、「天地人」の放映で、衆人が謙信の養子と認めるところである。
本図では、能登の名門畠山家から二人の養子を迎えている。そして信濃の豪族村上家からの養子の記載はない。この養子関連図の出所については触れてなかった。
なお、この図は撮影不可能なので、メモに残してきた。

サントリー美術館の「天地人」展 サントリー美術館の「天地人」展の養子関連図

歴史書や文献から、筆者は謙信の養子は以下のように考えている。
先ずは確実なところで、柏崎の上条城の上杉義春(上条義春)を挙げたい。上図では義春と政繁の二人を畠山家から迎えたことになっているが。義春一人ではないだろうか。
御館の乱では弟の景勝に味方し、その後も景勝方の有力な武将で、「天地人」で何度も名前がでてきた。初めは景勝や直江兼続と良好な関係にあったが、やがて兼続と意見の対立をみて、豊臣秀吉、徳川家康の食客となる。子孫は高家上杉家と高家畠山家となる。
上杉政繁と義春を親子としたり、同一人物だとの説もあり、これが混乱の原因のようである。

上杉が会津から米沢へ、そして直江家が断絶するのは、上条義春の怨念だとする説もある。
一番年長の養子は山浦上杉家を継いだ国清で、信濃から来た村上義清の実子である。国清は景勝に従い会津に移り、関が原の戦いまでは支配下にあったが、その後村上家の再興を願って出奔した。
「天地人」展は、サントリー美術館のあとは新潟県立博物館に移り、9月上旬まで開催しているが、国宝「洛中洛外図屏風」は、県立博物館の展示品に見当たらないように思う。

さて、直江兼続の「愛」に水を差すつもりはないが、先週の「天地人」で越後を去ったが、後日談が残る。大名が国替えの時は、年貢は半分を徴収し、残りの半分を置いていくのが決まりであるが、兼続は強引に全てを持ち去った。そのため越後に入った堀一族は、たいへん苦労をしたようである。また越後に上杉遺民一揆の勃発を謀るなど、「愛」や「義」と違う面も多く見られる。
歴史書や文献からは描いた筆者の養子関連図

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