毛利家のふるさと佐橋荘


2001年にNHK大河ドラマは、やがて第8代執権になる「北条時宗」であった。和泉元禰が時宗を演じたので覚えておられる方もあろう。
この物語のイントロは蒙古来襲であるが、実際はその20年前の三浦泰村の乱(宝治合戦)でドラマは始まる。
毛利季光(高橋英樹)は、第5代執権北条時頼(渡辺謙)と娘涼子(あきらこ:浅野温子)との縁談に悩んでいた。季光の妻で涼子の母である藤子(大谷直子)は、反北条の御家人三浦泰村(津嘉山正種)の妹である。
毛利季光は悩みぬいた末に、一族の繁栄が約束された執権一族と娘の結婚よりも、妻との「武士の義」を守り、敗戦を覚悟で妻の兄にあたる三浦方に付くことを選んだ。

結果は予期した通りの幕府北条方の大勝利で、三浦一族とともに相模毛利は、ことごとく鎌倉の源頼朝ゆかりの法華堂で自刃した。祖父大江広元以来の本貫地の相模国毛利荘はここに滅び、毛利家の命運は尽きたように見えた。
このことは毛利家発祥の地を訪ねるで、すでに述べている。

(クリックで拡大)  毛利氏系図ではこのHPも詳しい毛利家系図

季光と長男、二男、三男が法華堂の露と消える中で、運よく越後国佐橋荘(佐橋庄:さはしのしょう)にいた四男経光(つねみつ)が毛利の血を後世に繋ぐことになる。
父を宝治合戦で殺されたが、涼子は時頼の正室になり、きょうだい(兄妹?姉弟?)の涼子の働きかけがあったのか、時頼の徹底した謀反人の追及にもかかわらず、遠国にあった経光にはそれ以上のお咎めはなかった。
やがて経光は、佐橋荘南条と安芸吉田荘を四男時親に継がせることになる。

歴史書によれば、安芸毛利に始まる長州毛利家は、経光の四男時親を先祖にしている。時親は佐橋荘で生まれ、やがて鎌倉に出て再び北条執権を支えることになる。
毛利家系図には諸説があるが、ここでは戦国大名系譜人名事典(新人物往来社)や、柏崎の郷土史研究家の平原順二氏の系図などを参考にさせていただいた。

先ずはJR信越線北条駅 北条コミュニティへ この武将は北条高広かな
佐橋荘を見るおろす八石山 佐橋荘の中心地は何処だ 山城に続く登城橋
こんもりした森もある 由緒ありそうな刈羽神社 もう1回八石山にお願い
遂にに見つけた南条古城址だ 階段も風化している 間違いなく佐橋神社だ

地元の人に聞いても誰もわからない。佐橋神社だけでなく佐橋荘はもう幻なのだろうか。
前にこんもりした森も見えるが、工事中で近づけない。これでは歴史を見つめてきた八石山にお願いするよりほかにない。
するとまえの立札に南条古城址そして南条毛利館跡とある。越後七街道の北条毛利街道で館は100m先である。
建っている塔も歴史がありそう あれが佐橋神社だ 佐橋神社の表示に安堵

ここが長州毛利家のふるさと毛利時親の生まれた南条館の跡である。
鎌倉、厚木市毛利、そして柏崎市南条、やっと河井継之助の長岡を攻めた長州のふるさとにたどり着いた。心に爽やかに響き宮人が好みそうな名の佐橋荘は、美しい柏崎の自然の中にとけこんでしまい、今は幻のふるさとである。
次回は、佐橋荘の近くの山沿いの集落で、勝海舟の祖先のふるさとを探そう。
今は幻の南条館跡に建つ佐橋神社

  毛利の歴史
年 号 西 暦 毛利の歴史
元暦 2年 1185 壇ノ浦合戦で平家滅ぶ
建久 3年 1192 鎌倉幕府成立。幕府創設で大江広元が活躍、相模国毛利荘を得る
承久 3年 1221 承久の乱で功労有り、季光が越後国佐橋、安芸国吉田を得る
宝治 元年 1247 宝治合戦で季光など毛利荘の一族が滅ぶ
文永 7年 1270 経光が佐橋南条地頭職を時親に譲る
元弘 3年 1333 鎌倉幕府崩壊し、南北朝の騒乱期に入る
建武 3年 1336 室町幕府成立。時親が佐橋荘から安芸国吉田荘に入部
明応 6年 1497 弘元の二男として元就が吉田に生まれる。幼名松寿丸
大永 3年 1523 元就が家督相続。この時代に領土の拡大が続く
慶長 5年 1600 輝元、関が原合戦で敗戦、防長二国に移封
慶応 4年 1868 戊辰戦争始まる。長州毛利は発祥の地の越後に攻め入る

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