米百俵をおくった三根山藩

 明治3年(1870)、困窮する長岡藩に米百俵をおくった三根山藩の歴史を探ってみる。初代長岡藩主牧野忠成は寛永11年(1634)に、二男康成(祖父と同名)に与板に1万石、四男定成に三根山に6千石を分地した。当初は忠成は大名、康成は旗本としての分家である。それ以降両家は本家の長岡牧野家を支えることになる。

 分家から約二百年後の文久3年(1863)、11代忠泰の治世に5千石を表高に組み入れることが認められ、1万1千石で待望の大名に昇進し、ここに三根山藩の誕生となる。
藩の成立から4年後の慶応4年の北越戦争では、本家の長岡藩とともに奥羽越列藩同盟に加盟して幕府軍の立場を鮮明にしたが、長岡城が落ちた8月には越後の諸藩とともに新政府軍に降伏した。
 新政府には降伏後の殊勝な態度が認められ、微禄の減禄にとどまったが、長岡藩に連座して伊那谷への転封が命ぜられた。しかしこれも本家と一体になった嘆願が奏し、伊那谷への転封は取り止めになった。

 大名に昇進していらい藩の財政は悪化の一途をたどり、その後の北越戦争で三根山藩の藩士、領民も困窮の中にあったが、長岡に米百俵をおくることにした。彼らもまた「常在戦場」の実践者で、米百俵は富める者からの贈り物でないところにその価値がある。そして三根山藩には、近代まで米百俵の記録はほとんど残されてはいなかった。
なお三根山藩は巻町と岩室村(現・新潟市)である。

米百俵 米百俵は教育に
  三根山藩のできごと
年 号 西 暦 三根山藩のできごと 国内のできごと
元和 4年 1618 牧野忠成(初代藩主)が長岡藩主となる .
寛永11年 1634 忠成の二男康成に与板1万石、四男定成に三根山6千石を分地。 .
元禄15年 1702 与板藩牧野家は5千石加増となり小諸に移封、小諸藩となる .
文久 3年 1863 5千石を石高に参入し、1万1千石で11代牧野忠泰大名に昇進。 馬関戦争
慶応 4年 1868 三根山藩は奥羽越列藩同盟に加盟するも8月には降伏。12月に転封命令が下る 戊辰戦争、9月明治に改元
明治 2年 1869 忠泰が三根山藩知事となる。転封先は伊那に決定するも嘆願により転封は取り止めとなる .
明治 3年 1870 5月、米百俵を長岡藩におくる。三根山藩から峰岡藩に改名 .
明治 4年 1871 7月、廃藩置県で峰岡県となる .

 牧野一族には大名が5家ある。上記の長岡藩7万4千石、小諸藩1万5千石、三根山藩1万1千石と初代長岡藩主忠成の兄弟の流れをくむ笠間藩8万石と、父康成の兄弟の流れからでる田辺藩3万5千石である。
この本家は長岡牧野家である。


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