二松学舎大学vs東洋大学

 二松学舎大学は、河井継之助が備中松山で山田方谷に教え受けたとき、 方谷の高弟として共に学んだ三島中州(毅)が設立した「漢学塾二松学舎」を母体にした大学である。
中州は激動の幕末を師の方谷とともに、老中の重職にあった備中松山藩主板倉勝静を仕え、維新後は明治政府の命により上京し、主に裁判所長、大審院判事として活躍した。
明治10年(1877)官を辞した中州により漢学塾は創立された。

 わが国の固有文化を軽視し、西欧化への偏重するのを憂いた中州が、東洋の文化を学ぶことが日本本来の姿であると主張し、 東洋学の確立と新時代を担う人材の育成を建学の精神として塾を設立した。
昭和3年(1928)二松学舎専門学校と改称し、昭和24年(1949)新制大学に移行して二松学舎大学と改めた。
創立128周年の長い歴史と伝統を誇っており、元内閣総理大臣の犬養毅、文豪の夏目漱石、思想家の中江兆民、女性解放運動家の平塚雷鳥、柔道の講道館創設者嘉納治五郎など、各界に多彩な人材を堆出している。
この大学には建学いらい漢学と東洋学の確立に、創立者中州の志が脈々と流れている。

 一方、東洋大学は米百俵で設立された洋学校で学んだ井上円了によって設立された「哲学館」が前身である。 円了は安政5年(1858)長岡藩領浦村の慈光寺の長男に生まれ、明治14年(1881)東京大学文学部哲学科に入学した。 当時、西洋化に踊る時世を憂い、「洋の東西を問わず、真理は哲学にある」として哲学館を設立した。 学校開設の翌年から哲学館講義禄を発行し、通学できない人にも広く勉学の機会を与えた。
通信教育は当時としては画期的なことであった。
井上円了碑
(長岡市浦)
 30代からは全国行脚を始め、500回以上の講演を行い社会教育に力を入れた。 明治37年(1904)哲学館大学に、さらに昭和3年(1928)東洋大学と改めた。
大正8年(1919)講演先の大連において61歳で亡くなった。 また円了は妖怪研究の第一人者としても知られており、妖怪博士、お化け博士の別名がある。
円了の米百俵で学んだ教育への情熱が東洋大学には流れており、現在でも建学の精神にのっとって開かれた大学として、講師の派遣や公開講座など地域の人々に生涯学習の場を提供している。

 明治37年中野区松ヶ丘に精神修行の場として四聖堂(釈迦、孔子、カント、ソクラテス)を建設し、これを哲学堂と呼んだ。その後哲学堂は東京都に寄贈され、77ヶ所の園内の建造物には哲学にちなんだ名前が付けられ、多くの人に哲学の学習と憩いの場を提供している。

 継之助ゆかりの大学として、二松学舎大学および東洋大学の双方とも、西洋化に流されることなく日本人の豊かな心を求める大学としての建学精神が愛されている。

継之助の学友三島中州
(二松学舎大学)
靖国神社近くにある二松学舎
大学(東京・九段下)
二松学舎大学入口
東洋大学白山キャンパス
(東京・白山)
大学の建物を背にした井上円了 井上円了記念館
哲学堂公園入口の哲理門別名
妖怪門(東京・中野)
四聖堂 哲学堂の創設者井上円了像
六賢臺 三学亭 哲学堂公園のとなり蓮華寺
の円了墓

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