天皇の信任厚かった松平容保
会津藩主だった松平容保は、小さな竹筒を首から提げて終生肌身離さず、そしてその中身を誰にもみせなかった。
容保は明治26年、朝敵の藩主として波乱にとんだ人生を閉じたが、生涯かたくなまでに守り通したものは何だったのか。 容保は文久3年(1863)孝明天皇からご宸翰(ごしんかん:天皇直筆の手紙)と御製(ぎょせい:天皇の和歌)を下賜された。 その中でもこのご宸翰と御製はよく知られている。 【ご宸翰】 「堂上以下、暴論をつらね、不正の処置増長につき、痛心堪え難く、内命を下せしところ、 速やかに領掌し、憂患をはらってくれ、朕の存念貫徹の段、全くその方の忠誠、深く感悦の 余り、右一箱これを遣わすものなり」 文久3年十月九日 【御製】 たやすからざる世に 武士(もののふ)の忠誠の心をよろこびてよめる 「和(やわ)らくも たけき心も相生の まつの落葉の あらす栄へん」 「武士(もののふ)と心あはしていはほをも 貫きてまし 世々の思ひて」 わかり易く解釈すれば、ご宸翰は「堂上(注)以下が、乱暴な意見を連ねて、不正の行いも増え、心の痛みに耐えがたい。内々の命を下したところ、速やかにわかってくれ、憂いを払い私の思っていることを貫いてくれた。全くその方の忠誠に深く感悦し、右一箱を遣わすものなり」。 御製は「困難な世に武士の忠誠の心を喜んでよんだ。『平穏を望む心(天皇)も、勇猛な武士の心(容保)も、一つの根の相生の松のように共に栄えてほしいものだ』、『武士と心を合わせれば、どんな困難にも打ち勝ち、代々伝えられるだろう』」というようなことだろうか。 大名が天皇からご宸翰と御製を下賜されるのは異例のことであり、どちらにも忠誠の文字が見える。 のちに容保に贈られた神号は、貫いた人生と同じ忠誠(まさね)霊神であった。 (注)堂上:清涼殿に昇殿が許されている公家 |
ご宸翰(写本):会津若松市蔵 | 御製(写本):会津若松市蔵 | |
ご宸翰と御製の写真は、会津若松市より掲載許可をもらっています。無断掲載を禁じます。 |
松平容保は政治総裁職の松平春嶽に京都守護職に担ぎ出され、幕末の動乱の京都で火中の栗を拾うことになった。城が落ちた後の会津藩は、明治2年に嫡子容大が誕生し、家督相続が許され斗南藩となったが、下北の不毛の地に藩ごと配流されたような悲惨な生活が待っていた。 歴史を振り返り、ご宸翰を見せれば朝敵にならずに済んだという人もいる。戊辰戦争で廃墟となった長岡でも、天皇家にゆかりのある蒼柴神社は焼失しなかった。これは三之鳥居に掲げられた蒼柴大明神の額が光格天皇の勅額で、天皇家とゆかりの神社だったからだといわれている。(現在の三之鳥居は昭和38年に再建され、勅額は掲げられていない) 容保がご宸翰と御製を公開すればどうなったのだろう。薩長の謀略が渦巻く時代のことである、闇から闇へ葬られ、会津藩がけっして朝敵でない証であるご宸翰と御製の存在自体が、歴史から消えたのではないか。 歴史の不思議、容保は自らに「なぜ、なぜ」と問いかけたことだろう。 ご宸翰と御製が世に出たのは、容保の死から10年が経過した明治35年前後という。朝敵の会津に決してあってはならないものと、時の政府があわて、打ち消そうとする様子が目に見えるようだ。 明治維新誕生の高価な代償になってしまったが、容保が守り通したご宸翰と御製は、会津藩の正義と忠誠を永遠に伝える。 |
会津若松鶴ヶ城 | 地震直後の蒼柴神社の三之鳥居 |
いま皇位継承が議論されているが、蒼柴神社勅額の光格天皇は今上天皇の直系のご先祖である。 安永9年(1780)、現在と同じように皇統断絶の危機があり、7親等の隔たりのある閑院宮家から119代の天皇に即位したとされる。 119光格天皇⇒120仁孝天皇⇒121孝明天皇⇒122明治天皇⇒123大正天皇⇒124昭和天皇 ⇒125今上天皇 皇室典範改正の有識者会議に参加した学者によれば、天皇家が万世一系といわれるのは、皇統が男系により継承されたことであり、遺伝学から見ても説明できるという。 女性の染色体を<X1X2>、男性の染色体を<X3Y1>とすれば、男の子供は<X1Y1>または<X2Y1>、女は<X1X3>または<X2X3>の遺伝子を引き継ぐ。すなわち男系の子孫には初代神武天皇のY1染色体が、125代引き継がれてきたというのである。 万世一系で世界に現存する最後のエンペラー、存在自体が日本の誇りである。旧皇族の中には男系の遺伝子を引き継ぐ子孫がかなり残っているにもかかわらず、小泉総理はなぜ皇室典範の改正を急ぐのか不思議でならない。 |
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