勝海舟の祖先のふるさと杉平(T)


毛利家の祖先が柏崎の佐橋荘からでたが、西郷隆盛と会談し、江戸城の無血開城を果した勝海舟のふるさとは、佐橋荘にも近い柏崎の長鳥(ながとり)の杉平にある。長島(ながしま)と書いてある文献も多いが、地元を知っている者なら、長島と書かれていても、ナガトリと読んでしまう。また勝海舟は坂本龍馬の先生としても知られている。

勝海舟の曾祖父にあたる(山上)銀一は、幼いころに光を失った。越後に目の見えない人が多いのは、栄養不足からくる一種の風土病なのかも知れない。女は瞽女(ごぜ)になり、男は鍼灸や按摩、そして琵琶などを弾き、そのわずかな収入で生計をたてていた。
銀一も片貝(現小千谷市)で按摩などを覚え、ある年に越後を後にした。江戸に入り、雪の夜に行き倒れ同様なところを、幸運にも幕府の某検校(石坂検校との説もある)に救われた。

墨田公園に建つ勝海舟

女の瞽女には瞽女座の組織があり、男の盲人の自治的互助組織として当道坐がある。
その本部は京都に置かれ長は惣検校と呼ばれ、全国的な組織を統括した。 一時は江戸にも関東惣検校が置かれたこともあるようだ。
私的ではあるが官位として、最高位の検校(けんぎょう)から、別当(べっとう)、勾当(こうどう)そして 座頭(ざとう)があり、名前に「イチ」を付ける人が多いようである。
さらにに組織は細分化され、70余といわれ、座頭の下には無官のものも多い。
検校の名を手に入れるには千両が必要とされたというが、鍼灸や按摩の労働による収入だけでなく、座の分配金などで高位に付くほど見入りが多かったとされる。特に特筆されるのは、幕府公認で、大名や旗本に高利貸しができることである。
西郷隆盛 会見の地 勝海舟
石坂検校の弟子になった銀一は、杉山流の灸術を奥医師の嶋浦惣検校に教わった。そして水戸家などの大名家に出入りし、莫大な資産を蓄えた。
そして検校の官位を買い、ふるさとの山に因んで米山検校を名乗った。
また、御家人株を入手して男谷(おだに)家を興し、後に旗本に昇進した。やがて、米山検校から男谷検校と名乗るようになる。検校の子供はたくさんいたが、知られているのは彦四郎と末っ子の平蔵で、平蔵の三男が海舟(幼名麟太郎)の父となる(勝)小吉である。検校は平蔵には30万両を与えたというから、三男の小吉を普請組で無役な小身旗本の勝家に養子にだす時に、検校の財産が使われたと思われる。

一方、彦四郎が養子に迎えたのが、「幕末の剣聖」と言われた男谷精一郎で、海舟とは従兄弟になる。幸運にも男谷家の親戚で大奥に勤める阿茶の局の紹介で、11代将軍徳川家慶の子初之丞(後の一橋慶昌)の遊び相手として、海舟は幼くして江戸城へ召されることになる。


海舟は男谷精一郎の道場や、精一郎の高弟の島田虎之助の道場で剣を習い、直心影流の免許皆伝である。小吉は小普請組で悲運の一生だったが、息子海舟に夢をかけ、この有様を描いたのが子母沢寛の「親子鷹」である。

江戸時代の中期ごろ北日本地域は、天候不順に見舞われ大飢饉が襲った。検校は田舎の飢饉に3度に渡り米を贈り、ふるさとの飢餓を救った。
住民はそのお礼として、各所に御礼塔を造った。それがいま長鳥地区の3箇所に残っているのである。検校は亡くなる前に子供を集め、「親の財産を当てにするな」と言い聞かせ、借金の証文を全て燃やしたと伝わる。このため、子供達は貧しい生活に逆戻りをした。
海舟は小吉の実家である男谷家で誕生して、7歳で赤坂に転居するまでそこで育った。両国の墨田区立両国公園内に「勝海舟生誕之地」碑が建っている。また墨田区役所敷地内には勝海舟像が建っている。
佐久間象山の知遇を得、海舟の妹の順子は象山に嫁いでいる。海舟には息子の小鹿(ころく)がいたが、海舟の晩年に40歳で急逝し、勝家では徳川慶喜の十男・精(くわし)を養子に迎えた。

越後の貧しい寒村→盲目→江戸→検校→男谷→勝→阿茶の局、と連なる先に、幕末の勝海舟の姿が見える。

長鳥踏切の左の道を進む 頂上の右上に御礼塔 十二夜塔と庚申塚
これが米山検校の御礼塔 佐橋荘の中心地は何処だ 明るい村の大角間
3つ並んだ碑の左が大礼塔 御礼塔の米山の碑 開館した検校塾

では勝海舟の先祖の地を歩いてみよう。
北条方面から塚山峠に向かい、信越線の踏み切りを越えた所に、車が1台やっと通れるほどの狭い道がある。しばらく進むと道幅も拡がる。この山中には御礼塔があるはずである。でも住民に聞いてもわからない。
江戸時代の末期に飢饉から村を救った恩人は、すでに風化している。頂上から峠を降りかけた所に1軒の家があった。聞くとちゃんと知っていて、100mほど戻った道の上にあるらしい。
確かに草に埋もれて三つの石碑が建っている。左から十二夜塔と庚申塚で右端の角ばったのが御礼塔である。
十二夜塔と庚申塚の文字はかろうじて読めるが、御礼塔の正面は風化して判読できない。左横は「三ヶ年困窮附 米山検依」、右横は「宝暦八歳岩野入村」とある。
以前はこの付近には家があったが、少し下がった所にもう1軒の、2軒しか残ってないとのことである。昔は更に奥くに十二ノ木の集落があったとのことである。

道は下りになりしばらく進むと棚田が良く見える場所に出た。さらに緩やかな道を降りると40軒近い集落の大角間につく。
ここにも墓石を含めて3つの石碑が並んでいる。米山検校御礼塔と毛澤塚と書かれた筆塚がある。舗装された道路の端で石碑の前に、白い椅子が2脚置いてあるので見逃すことはない。
中央の大きいのが筆塚で、左が御礼塔で米山検校の名前もはっきり読み取れる。碑面は「宝暦八年 卍米山検校御礼塔 飢人 敬白 寅三月」である。この近くにはもう1つ御礼塔があるようだが、今回は省いた。
ここは、米山検校の生まれた杉平地区であるが、村人で偉大な偉人を産んだ地を守ろうとしているのを実感できる。
長鳥を越後国三島郡としている文献が多いが、長岡などと同じ古志郡からでた三島郡(さんとうぐん)か、それとも刈羽郡の古名の三嶋郡(みしまぐん)かは、まだ調査してないが、おそらくは後者であろう。
米山検校の碑 ここが勝海舟の先祖のふるさと 咸臨丸

幕末に江戸城の無血開城で江戸を守り、晩年には元将軍徳川の慶喜の子供まで迎えた勝家は、維新やその後の功績で伯爵に上り詰めた。
では海舟はふるさとを長鳥と知っていたか否かは、気にかかるところである。墨田公園に顕彰碑を建てる会の調査によれば、勝は米山検校の生地を柏崎市長鳥と突き止めて、山上家に、祖先の地ではないかとの問い合わせがあった。しかし、海舟が余りにも雲の上の人になり、自分達が置かれている状態から、畏れ多いと思い「違います」と答えたとのことである。
問い合わせの手紙も処分したので、今は真実を誰も証明できなくなった。時代は明治中期以降であろうから、おそらく祖先の故郷が長鳥と知りながら、実家の心情を察して調査は打ち切ったのではなかろうか。

もどる