西郷の手の中にあった坂本龍馬

 犬猿の仲といわれた薩摩と長州。慶応2年(1866)1月、このふたつの藩が同盟を結んだことが、日本の歴史を大きく変えた。両藩の対立は明治以降も続くのだから、薩長同盟ほど幕末の不思議なできごとはない。
これを演出したのが、土佐の自由人「坂本龍馬」であり、今でも幕末の英雄として人気が高い。龍馬は幕末を動かしたひとりの英雄に異論はないが、背後には龍馬を取り込んだ薩摩の西郷隆盛が黒幕として見えてくる。

 まず坂本龍馬の年表を見よう。
年 号 西 暦 年 齢 坂本龍馬のできごと 国内のできごと
天保 6年 1835 郷士の二男として高知城下に生まれる .
嘉永 6年 1853 19 江戸遊学、北辰一刀流学ぶ 黒船でぺりー来航
安政 5年 1858 24 北辰一刀流免許皆伝 安政の大獄
万延 元年 1860 26 . 咸臨丸で勝海舟アメリカへ。桜田門外の変
文久 2年 1862 28 脱藩、勝海舟に会い入門 寺田屋の変
文久 3年 1863 29 神戸に海軍操練所設置勝の使いで松平春嶽に会い、操練所の費用5千両を借用。操練所塾頭となる 長州、馬関でアメリカ船を砲撃、薩英戦争
元治 元年 1864 30 海舟の使いで京都で西郷隆盛に会う。海舟はその後軍艦奉行罷免、海軍塾生は最大の理解者を失う 池田屋騒動。禁門の変。
海舟と西郷が会う。第一次長州征伐
慶応 元年 1865 31 京都に西郷隆盛を訪ねる。海軍塾生を薩摩雇用。薩摩船で鹿児島へ。薩摩藩が長崎に亀山社中を設立。亀山社中の名で軍艦と銃7千丁を購入し長州へ渡す。桂小五郎に会う 征長総督参謀の西郷は兵を解く。高杉晋作が馬関で挙兵
慶応 2年 1866 32 寺田屋で襲撃を受け、鹿児島で治療。 第二次長州征伐。薩長同盟。将軍家持、孝明天皇死去。慶喜将軍となる
慶応 3年 1867 33 海援隊隊長となる。船中八策。高知に帰り家族と再会。京都近江屋で刺客に襲われ死去。 明治天皇即位。いろは丸事件、大政奉還、王政復古、西郷・勝会見

土佐の坂本龍馬 西郷隆盛(東京・上野) 勝海舟(東京・墨田) 薩摩屋敷(東京・三田)

 元治元年(1864)禁門の変が起こる。京都御所蛤御門(はまぐりごもん)付近で薩摩・会津両藩と長州が衝突した。外国の圧力に対し、尊皇攘夷を叫ぶ長州と公武合体で国難を乗り切ろうとする薩摩との両藩の対立が根本にある。
幕府は西郷を長州討伐の責任者に任命し、当初は西郷も長州の息の根を止める考えを持っていたが、直前に西郷の考えを変える出会いがあった。

 長州討伐について軍艦奉行勝海舟に意見を求めたところ、海舟は「幕府には人材がいない。このまま幕府の政治が続けば、日本は外国の餌食になる。これからは合議して政治を進める共和政治の時代になるが、その実現のためにも長州を潰すべきではない」。
海舟は数年前に咸臨丸でアメリカに渡り外国事情に精通していた。海舟はここで議会政治や、進んだ文化を見るに及んで、そのまま留学を望みながら果たせなかった。誰でも大統領になれる可能性のある自由の国アメリカで、海舟の永遠のライバルとされる小栗上野介との身分の差を実感した。海舟はそのまま帰国、小栗はアメリカの文化を十分吸収することができた。
西郷は海舟との出会いで長州討伐の考えを改め、長州を説得して幕府に謝罪させ事を収めさせた。
 
 海軍塾に浪士を多用したことで、幕府に睨まれた海舟は軍艦奉行を罷免され、龍馬など海軍塾生は行き場を失った。西郷は彼等を薩摩藩で預かり、長崎に貿易会社「亀山社中」を設立した。その後、薩摩は亀山社中を使って、軍艦や鉄砲7千丁を長州に引き渡すことになる。  

西郷隆盛・勝海舟会見 3年ぶりに両雄会見 長州・松下村塾

 薩摩に来てからの龍馬は史実と大分違うようだ。海舟から離れた後の龍馬は西郷の手の中にあり、密使として長州に接近した。NHKの調べた薩摩の文書からは、密使は一人でなく、水戸浪士「斉藤」もその一人で、斉藤は西郷の命により長州の奇兵隊高杉晋作のもとに送り込まれ、高杉に薩長同盟を説いた。
龍馬の接触した桂小五郎(木戸孝充)は薩長同盟に強い関心を示したが、高杉晋作は一介の浪人である斉藤の話を一蹴したらしい。こちらのルートが成功しておれば、桂浜に龍馬の銅像が建つことも、お龍との日本の新婚旅行第1号と呼ばれることもない。薩摩藩の命運をかけた薩長同盟の推進には、行動力のある土佐の脱藩浪人坂本龍馬の存在が必要だった。

 龍馬を薩長同盟の立役者として、高く評価しているのは長州の木戸孝充である。薩摩が一方的に長州を助けるのは、プライドが許せないのかも知れない。龍馬暗殺については従来の幕府説、そして薩摩藩説、いろは丸の賠償金8万数千両をめぐる土佐藩説(賠償金が三菱財閥へ発展)がくすぶっているが、今後も永遠に闇の中にあるのだろう。

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