勝海舟の祖先のふるさと杉平(U)


勝海舟の曾祖父の御礼塔は前回の調査では2基見つけたが、今回は残りの1つを探す旅である。
杉平集落の能満寺の近くに父母の墓があり、その脇に御礼塔があると目星は付けてある。
長岡から塚山峠を越えて柏崎に入り、坂を下り信越線の長鳥(ながとり)踏切を越えたところで、車をUターンする。
この入口は来た方向からでは、右折ができないことは、前回の捜索で知っている。
しばらくの間は、車幅一杯の道を登り、途中からは道幅は少し広くなるが、頂上が最初の御礼塔である。この塔は標識もなく草に埋もれている。
そこから下り、大角間(おおがくま)集落の道路沿いに2つ目がある。この塔は標識があるのですぐにわかる。大きな碑は筆塚である。整備された舗装道路を下ると、咸臨丸が見えてきた。
さて、ここからが今回の御礼塔探しであるが、能満寺の近くに御礼塔があることは知っている。

信越線・長鳥の踏切を登る 峠の頂上の林の中に一つ 2つ目は大きな筆塚と並ぶ

咸臨丸と右の建物は検校塾

寺の名前は曹洞宗長昌山能満寺である。実はこの寺は以前から名前だけはは知っていた。
以下はちょっと余談である。
戊辰戦争に詳しい磯部定治の「越後長岡藩の悲劇」によれば、西軍と戦うことを反対した、長岡藩家老の稲垣平助は謹慎中で、家族は長岡城北方の川崎村に避難していた。慶応4年5月末の長岡藩の反撃で、家族に危険が迫り、川崎村から脱出し、榎峠を越え浦柄から舟で対岸に渡り、旧知の岩田村の庄屋に助けを求めた。
越路地区では、木曽義仲に仕えた郷家とともに、清和天皇につながる旧家として知られている。
ここの何代目かが長昌を名乗り、これが能満寺の長昌山になった。
当然のことながら、いまでも白井家の菩提寺である。

ちょうど住職が出かけるところで、白井家の名と米山検校の御礼塔を探していることを伝えた。
住職は丁寧に、道順を教えてくれた。
当初、予想していた御礼塔の場所は、能満寺の付近であったが、以外にも寺と相対する山の中腹にあった。

長昌山能満寺の入口 能満寺の本堂
舗装道路の脇に細い道と案内板 柏崎の歴史の深さを示す標識

舗装道路の脇に、「米山検校御礼塔入口」の標識がたっている。しかも北条毛利街道とあるではないか。
放映中の大河ドラマ「天地人」で、北条(きたじょう)一族は、御館の乱で景虎側に味方し、これが越後毛利北条家の衰退につながったのである。
20mほど登ったところに、父母の山上家の墓と並んで、御礼塔はあった。文字はかなり風化してほとんど解読不能であるが、男谷検校と読めた。他の2基が米山検校であるのに、こちらは正式名の「男谷」を名乗っていたのは意外な発見であった。
父母の墓と並んで男谷検校の御礼塔が建つ

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