司馬遼太郎「峠」文学碑

 司馬遼太郎の「峠」文学碑は小千谷市高梨の「越の大橋」のたもとにある。信濃川を挟んだ対岸は長岡市妙見、そして南に小千谷に通じる険しい榎峠と朝日山が続く。河井継之助は慈眼寺での会談にのぞみ、和平への証として、戦略的な重要拠点である榎峠から兵を引いたという。

 司馬文学の「峠」は、「榎峠」のことか、それとも「慈眼寺の会談」を指すのだろうか。

 継之助の外交を一個の峠とすれば、談判というのは峠の頂上であろう。
 (司馬遼太郎「峠」より)

 「峠」文学碑より
   江戸封建制は、世界史の同じ制度のなかでも、きわだって精巧なものだった。 17世紀から270年、日本史はこの制度のもとにあって、学問や芸術、商工業、農業を発展させた。この島国のひとびとすべての才能と心が、ここで養われたのである。

 その終末期に越後長岡藩に河井継之助があらわれた。かれは、藩を幕府とは離れた一個の文化的、経済的な独立組織と考え、ヨーロッパの公国のように仕立てかえようとした。継之助は独自な近代的な発想と実行者という点で、きわどいほどに先進的だった。

 ただこまったことは、時代のほうが急変してしまったのである。にわかに薩長が新時代の旗手になり、西日本の諸藩の力を背景に、長岡藩に屈従をせまった。

 その勢力が小千谷まできた。かれらは、時代の勢いに乗っていた。長岡藩に対し、ひたすらな屈服を強い、かつ軍資金の献上を命じた。

 継之助は小千谷本営に出むき、猶予を請うたが、容れられなかった。といって屈従は倫理として出来ることではなかった。となれば、せっかく築いたあたらしい長岡藩の建設をみずからくだかざるをえない。かなわぬまでも、戦うという、美的表現をとらざるをえなかったのである。

 かれは商人や工人の感覚で藩の近代化をはかったが、最後は武士であることにのみ終始した。武士の世の終焉にあたって、長岡藩ほどその最後をみごとに表現しきった集団はいない。運命の負を甘受し、そのことによって歴史にむかって語りつづける道をえらんだ。

 「峠」という表題は、そのことを小千谷の峠という地形によって象徴したつもりである。書き終えたとき、悲しみがなお昇華せず、虚空に小さな金属音になって鳴るのを聞いた。
 
    平成5年11月                        司馬遼太郎

司馬遼太郎「峠」(新潮社) 「峠」文学碑附近からの榎峠 慈眼寺・会談の間 「峠」文学碑
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