桑名藩士の柏崎日記と消えゆく墓


柏崎は桑名藩の飛び地領である。その昔、柏崎は高田藩主松平越中守の領地であったが、奥州白河に転封となった。その後、白河から桑名に国替えとなるが、柏崎はそのまま統治が続いた。越中守は鵜川の左岸の小高い岡に陣屋を構え、本国からわずか50人ほどの人数で、越後の領地を治めた。

「柏崎日記」は桑名藩の下級役人が、国許の桑名の家族に書いたものである。桑名藩士の渡辺勝之助は柏崎陣屋に赴任となり、桑名の養父と10年間にわたる日記の交換を行った。ひらがな入りの平易な文章で日常のことが書かれており、当時の生活を知る上で貴重な資料である。
天保10年に勝之助(38才)は柏崎詰めとなるが、彼には養父の平太夫(56才)、妻菊(29才)、長男鐐之助(4才) と長女ロク(1才)がいた。養父平太夫は孫の教育を考え、鐐之助を桑名に残させ、その代わりに桑名と柏崎の間で、日記の交換を約束した。 平太夫が書いたのが桑名日記で、勝之助の書いたものが柏崎日記と呼ばれる。
交換の方法は1ヶ月くらいを書きまとめ、桑名藩江戸下屋敷経由の飛脚便で桑名に送った。遅いときは3ヶ月もかかったと言われるが、国許を離れた陣屋の役人にとっても、桑名日記は需要な情報源でもあった。


桑名藩柏崎陣屋跡 極楽寺の渡辺勝之助の墓

柏崎と桑名の日記交換は、父平太夫が亡くなるまでの10年間続いた。勝之助の妻や子は体が弱く、柏崎日記には夫の心配している様子がよくでてくる。

お菊は昼飯に煮返した飯を一膳食べたといい、どこが痛いというわけではないが、切なくて、起きていられないといい、「なんとしても柏崎の土にはなりたくない」と歯ぎしりをしているが、無理に飯を食べれば喉に詰まり、吐くのでどうにもならない。(天保十四年六月二十六日 「柏崎日記」より)

真吾は下痢が止まらず、日に四、五回ずつ腹をくだす。それでなくともやせ衰え力がないのに、いよいよ骨と皮だけになり、毎日熱が出る。だが、元気は良い方で、時々笑顔も見せる。  昼から学校へ出て四時過ぎに帰ったが、お菊は舌の痛みが強く苦しんでいる。医者の江庵が来て、口の中から血を採ってくれたそうだが痛みは変わらず、夕飯はやっと二膳を食べたという。夜は日が暮れると行燈を点けたまま、直ぐに寝た。(天保十四年六月十八日 「柏崎日記」より)
極楽寺 勝願寺 西光寺
柏崎市の大久保地区一帯は、小高い岡になっており、下に鵜川の流れが見える。岡と鵜川に挟まれるように極楽寺があり、勝之助は父と同じ平太夫の名前で、ここ柏崎に眠っている。

中越沖地震で、勝之助の墓石が失われているのではないかと気がかりであったが、柏崎日記を残したお陰で、墓は特別扱いを受けている。墓石にははっきりと渡辺平太夫の文字が読みとれる。
勝之助は終生桑名への帰郷を望んだが、63歳で柏崎に没し、今も小高い岡の上から故郷の方向を見ている。病気がちだった妻菊、長男鐐之助、長女ロク、そして柏崎生まれの真吾などは、このあとどうしたのであろうか。


柏崎陣屋があった大久保地区には、3つの大きな寺と神社がある。寺は勝願寺、極楽寺、西光寺で神社は豊州神社である。
勝願寺、極楽寺は桑名藩には縁の寺であるが、西光寺と豊州神社の係わりは調べてない。
どの寺も中越沖地震で大きな被害を受け、まだ墓石や碑が倒れた状態のものが多く見られる。

そこで気になるのは、一部の文化財に相当する碑は早急に復旧しているが、持ち主のわからない墓石が多いことである。柏崎日記の渡辺平太夫の墓がある極楽寺では、墓石に撤去の期限が書いて告知している。ここには長年支配が続いた桑名藩士の墓も、多くあるのではないだろうか。
地震が一つの区切りに違いないが、子孫に知られずに、異郷の土になるには口惜しい仏も多かろう。

墓の近辺を歩いていると、土の中の叫びが聞こえてきそうである。
柏崎から戻り、中日新聞社と桑名市役所に、地中の声を代弁して投書をした。自治体同士が連絡をとり、少なくとも個別の調査は残していただきたいとの内容である。少なくても柏崎日記の渡辺平太夫の墓石は見届けた。しかし、こうゆう投書には返事が来ないのは毎度のことで、迷わず成仏しろと祈るしかない。

ただ者ではない立派な墓所 倒れたままの神社の石碑 届出なしは撤去の告示
これは安心の桑名藩招魂碑 こっちは西軍の招魂所と墓石 かって桑名陣屋を襲撃した生田萬

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