幻の越後長峰城を歩く

長岡藩牧野家が上州大胡(現前橋市大胡)から、越後長峰(現上越市吉川区長峰)5万石に国替を命じられたのは、元和2年(1616年)7月のことである。この2ヶ月前に徳川家康は死去し、2代将軍秀忠の治世に移っている。さらに2年後の元和4年(1618年)4月に、牧野家は長峰から越後長岡に国替となる。
幕府の命を受け、南北を池に挟まれた丘陵地に城造りが始まったのであるが、2年にも満たない短期間で、はたして長峰に城が完成したのか、それとも未完成だったのかは、今でも謎とされている。
長岡懐旧雑誌では、「元和4午年3月21日上州大胡より御引越之節御人数」の記録があることから、以前は大胡から直接長岡に入ったとされる説が強かった。長峰城に詳しい松永靖夫氏は、近年発見される文書や絵図などから、長峰に城は完成しており、従来説の見直しも必要ではないかと提言している。

城が完成していたとする根拠は、城があったと思われる「古城、御厩、屋敷、大屋敷」などの地名が、城跡とその周りの長峰地区に残っていること。小諸藩の始祖である康成が、元和3年に長峰で誕生したとする説があること。昭和60年に発見された長峰城の古絵図に城が描かれ、城の完成を示唆していること。また元和2年9月に忠成が、城に近い町田御林の樹木の伐採を禁じた掟書が、庄屋あてに出されていることから、藩主がすでに長峰にいたであろうと土田隆夫氏などは推測している。

長峰城の大手口は西の高田城を向いているが、これは松平忠輝を監視する役目があったのであろう。忠輝は父の家康の危篤を聞き、駿府まで駆けつけているが、それまでの行状から対面は叶わなかったという。そもそも牧野家が移ってきた長峰は、改易となった忠輝の領地内である。忠輝が高田に居なければ、あいて大手門をその方向に向ける必要性がない。長岡城を築造した堀直寄は、元和2年から4年のわずか2年間で、ほぼ城を完成させたので、長峰でもできないことではないと思われる。
長峰に来て城跡を歩いていると、工事を急がなかった理由がわかったような気がした。それは改易した忠輝の後に高田城に入ったのは、徳川四天王家で盟友の酒井忠次の子供の家次で、5里(20km)にも満たない近距離に、牧野家を置いて監視する必要はすでになくなり、幕閣の間では他に国替の暗黙の了解があったのではないだろうか。とすると、筆者も城は未完成に旗を上げたくなるのである。
【7a】長峰池の東端から見た長峰城跡の丘陵地
長峰城の古絵図 長峰に伝わる牧野忠成の町田山伐採禁止の古文書

長峰集落の地蔵堂 長峰集落の神明社
長峰城の位置は、直江津港と米山を結ぶ線上のほぼ中間点にある。海岸から2kmほど内陸に入ると、右手に大きな長峰池(ハカマ池)が見えてくる。かなり大きな池で、左手の小高い丘陵地が長峰城の跡である。長峰集落に入ると、道路の端に長峰地蔵堂や神明社があり、歴史を見守った神社に、今回の旅で新しい発見があるようにお参りした。
城は北の長峰池と南のサイカ池(今は埋め立てられて存在しない)に挟まれた、防御性の高い丘陵地にあり、城周りは深い空堀でさらに守りを固くしている。今は城跡を突き抜ける車道が東西に走り、下の2枚の図は実際には15度程度右肩上がりある。図1の車道の左端に大手口があり、改易になった松平忠輝の高田城を向いていたとされる。残念ながら城郭部分は、後世に土砂の採取でかなり窪まっているが、空堀などは明確に残っている。
記号と矢印はその位置から見た画像で、最初の長峰池の画像は、「図2」の【7a】から見たものである。
「図1」長峰城跡(記号と矢印は画像と一致する)
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「図2」長峰池と長峰城跡(中央下が駐車場)
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駐車場の長峰池寄りの一番奥に車を止め、そこから長峰城跡を反時計周りに歩いてみることにする。土塁の上は細い遊歩道があり、城跡を一周することができる。
【0a】手前は駐車場で左が長峰城跡 【0b】左は駐車した車、中央の建物はトイレ、右が城跡
【1a】木が茂りここからは城跡に入れない 【1b】城跡を縦断する車道、前方に立札が見える
【1c】前方に見えたのは長峰城の立札
【1d】城跡の車道と左は土を削り取り平地になる 【1e】空堀はかなり深く、底が暗くて見えない
【2a】長峰池に続く巡回道路の入口 【2b】巡回道路は右に曲がり城から離れるので引き返す
【3a】城を取り巻く空堀の説明 【3b】周囲より一段と高い南東の楼台
【3c】先ほどの平坦地を奥から見る 【3d】道を真っ直ぐ進めば長峰池の方向
【3e】前方は池で左に直角に曲がる 【3f】ここに北東からの虎口跡
【4a】池と平行に西に進む 【4b】はるか下に長峰池が見えてきた
【4c】北側は長峰池で固く防御 【4d】こちらは北西の虎口跡
【4e】さらに直進、左の木の陰に駐車場のトイレ 【4f】この虎口は船着場へ続く
【4g】船着場跡から米山が見える。右手の建物は取水塔
【5a】駐車場から再び城跡へ引き返す 【5b】北西の虎口から主郭へ
【5c】駐車場と平行に進む 【5d】土塁を下りた所は城跡の立札の場所
これで長峰城を一周したが、この部分は城の主郭部分であり、普段の居住地はこの丘陵地一帯で、屋敷、大屋敷、御厩などの地名が残り、城域はかなり広かったようである。西側の高田城の方向は、今は牧場や畑地になっているが、当時もこの方向は見通しをよくしていたと思われる。下の【7b】の画像では、左端に駐車した筆者の車があり、右端が南西の楼台で、その左の木立の低い所が車道であるが、当時は大手口だったと推測される。
図2の【7c】から南のサイカ池の方向を見ると、今は埋め立てられ水田や宅地が広がっている。長峰集落を通り過ぎようとしたら、円光寺という寺があり、古文書や長岡藩に縁がある家臣の墓がないかと期待が高まった。住職の話では寺は当時からあったが、この寺の住職は世襲ではないので、古い記録が残ってないとのことである。
【7b】西に少し離れた位置から(高田城の方向から)
【7c】南のサイカ池は今は水田に変わる 【7d】長峰城よりも古くからある円光寺

長岡懐旧雑誌によれば、牧野忠成は松平忠輝の改易に伴う高田城二の丸を、堀丹波守と受け取ったとある。忠輝の後の高田城へは酒井家次が入り、長峰城建設の主目的もなくなったように思えるが、皮肉なことに高田はその後も動乱が続いた。
酒井家次・忠勝の後で、入封した松平忠昌(結城秀康の二男、松平忠直の異母弟)は、兄忠直の改易で越前福井に転封となり、交替に高田に入った松平光長(忠直と徳川秀忠の娘勝子の子)も、やがて越後騒動で改易となった。光長の改易に伴う高田城二の丸受取に、手腕を発揮したのは、長岡藩3代藩主の牧野忠辰である。この後も高田藩では不祥事が続き、やはり長峰に城が必要だったのかも知れない。

長峰から長岡へ移るのは元和4年であるが、1年後の元和5年に酒井家は信州松代(さらに元和9年に庄内へ)に移る。牧野家は幕末まで長岡から動かないが、長岡でも越路地区の大半は牧野家ではなく、酒井家〜松平忠昌〜松平光長〜稲葉家の統治となった。また稲葉家が佐倉、淀と国替になっても飛地として残り、長岡藩領となったのは寛政年間の9代牧野忠精の時代で、高田はすでに榊原家に代わっている。
また幕末に共に幕府軍として戦う桑名藩が、柏崎周辺に飛地を持つのは、松平久松家が高田藩として統治した領地が残ったものである。

 めまぐるしく領主が代わる高田
藩 主 治世 石高 記  事
上杉謙信、景勝 春日山城 120 会津へ
堀秀政、忠俊 福島城 2代 45 豊臣家大名。秀俊は改易、堀家は(奥田)直奇が継ぐ
松平忠輝 高田城 1代 60 家康六男、改易
酒井家次、忠勝  〃 2代 10 徳川四天王家
松平(越前)忠昌  〃 1代 26 結城秀康の二男。松平(越前)忠直の弟
松平(越前)光長  〃 1代 26 父親の忠直の改易による左遷。越後騒動で改易
稲葉政住  〃 1代 10 春日局の実家
戸田忠真  〃 1代
松平(久松)定重  〃 5代 11 於大(家康の母)の再婚先、子孫は桑名藩
榊原政長  〃 5代 15 徳川四天王家。父の不祥事による姫路からの左遷
(万石)
 参考文献
  吉川町史
  松永靖夫「牧野氏と長峰城跡」/長岡郷土史
  土田隆夫「ふるさと長岡」

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