札幌農学校の校長になった長岡藩士(森源三の写真)

会津藩そして庄内藩の降伏により、東北を転戦していた長岡藩も、明治元年9月末に遂に降伏した。
河井家は戦争の責任を負って家名断絶となり、残された母「貞」と妻「すが」は長岡藩士森源三に連れられて、ふるさと越後を後にした。
次に源三が姿を現したのは北の大地で、敵将黒田清隆(了介)に請われて開拓使に抜擢されていた。黒田と源三の繋がりは、かって江川太郎左衛門の塾で共に学んだ縁によるものであろう。
また源三の夫人は、河井継之助の姉「(根岸)千代」の子供であることはいうまでもない。

今年は長岡市で全国藩校サミットが開かれる。越後長岡藩の藩校は「崇徳館(そうとくかん)」であるが、ここで学んだ長岡藩士が札幌農学校(北海道大学の前身)の校長になった。札幌農学校といえばクラーク博士であるが、源三は同じ時期に机を並べた実質的な責任者で、札幌農学校の第2代の校長になった。
全国藩校サミットin長岡の記念すべき年に、北海道大学が保管している森源三の貴重な写真の掲載許可を貰った。      (画像の複写は禁止:画像の公開については北海道大学の承認済)    
クラーク博士と河井家の末裔」「五稜郭の武士道(黒田了介)

森源三の家族(4人)
(複写を禁ず)
森源三 森源三を囲む開拓使官吏たち
(複写を禁ず) (複写を禁ず)
森源三の家族(10人)
(複写を禁ず)
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