五稜郭の武士道「黒田了介」
明治2年(1869)、五稜郭に立て籠もった旧幕府軍を、アリの1匹も抜け出せないほど圧倒的多数の新政府軍が包囲した。籠城して守るのは蝦夷共和国を宣言してその総裁となった榎本武揚で、攻め手の指揮官は長岡城の攻防戦、奥羽の戦いから転戦してきた薩摩藩の黒田了介(清隆)で、箱館征討参謀の立場にあった。 黒田は西洋砲術の大家でありながら開明的な考えの持主で、北越では河井継之助に手紙を送ったり(届かなかったが)、奥羽の庄内では西郷隆盛と協力し温情の降伏を勧めるなど、戦いを避ける手法をとり続けた。 総攻撃を翌日に控えた黒田は榎本に使いを送った。「翌朝、総攻撃を開始するので降伏するなら申し出て下さい」。榎本は使者に、「降伏する気はないので存分に攻めて下さい」と回答した。 この時、敵の大将に好感を持った榎本は、彼が肌身離さず持っていた「海律全書」を使者に渡し、「オランダから持ち帰った大切な本で、戦禍で焼けるのは惜しい。これを日本のために役立てて欲しい」と伝言した。 黒田も榎本に好感を持ち、「武器弾薬の不足はありませんか」と再度使者を送った。これに対し榎本は「申し出はありがたいが、弾薬は十分にある」と答えた。黒田は酒樽を五稜郭に運びこませ、もう一度降伏を勧めた。榎本は弾薬はことわったが、酒樽は敵将の好意として受け取った。 絶えて久しい武士道を相手の武将の中に見た榎本は、部下の命と引き換えについに降伏勧告に応じ、自らは切腹しようとしたが側近に制止された。 |
黒田了介(清隆) | 五稜郭 | 榎本武揚 | 五稜郭を見下ろす土方歳三 |
降伏した榎本は2年半ほど投獄されたが、黒田が助命嘆願に奔走し明治5年に赦免された。この後の榎本は、初代伊藤博文内閣で逓信大臣、二代黒田清隆内閣で農商務大臣、文部大臣、三代山県有朋内閣で文部大臣、四代松方正義内閣で外務大臣、五代二次伊藤博文内閣で農商務大臣、六代二次松方正義内閣で農商務大臣などを歴任した。 五稜郭で散る命が武士道に救われた榎本は、生まれ変わって日本の近代化に大きく貢献した。幕臣としては異例のことである。 |
五稜郭跡 | 五稜郭の設計者武田斐三郎 | ここにも五稜郭跡? |
土方歳三が倒れた一本木関門 | 土方歳三最期の地 | 五稜郭を包囲した大砲 |
箱館戦争供養塔 | 戦死者を弔う碧血碑 | 箱館奉行所の名残 |
榎本武揚の父円兵衛は箱田良助といい、備後国箱田村(広島県福山市)の出身で、江戸に出て幕臣榎本家の株を買い榎本円兵衛武規となった。 海軍総裁の勝海舟の先祖の米山検校が、越後国長鳥村(現柏崎市)から江戸に出て、男谷家そして勝家の株を買って幕臣になったのと似ている。 箱田良助は郷士の二男の生まれで、幼少のころより秀才の誉れが高く、江戸で学問をしたいという夢を持っていた。幸運にも彼を理解してくれる人にめぐり会い江戸に上った。良助は天文学を勉強し、伊能忠敬の弟子になった。忠敬の日本各地の測量に同行し、忠敬の死後も地図製作を引き継ぎ、忠敬の偉業を完成させた陰の功労者である。やがて世間でも優れた測量家、数学家として認められるようになった。 良助は千両で三河以来の旗本榎本家の株を買い、天文学で幕府に仕えた。ついに将軍徳川家斉に認められ、将軍の外出時には全国の測量で養った豊富な知識で、将軍の側近の一人として寵愛された。 |
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伊能忠敬 |
伊能忠敬生家(佐原市) | 忠敬生家の書院 | 富士山測量図 |
水と歴史の街佐原 | 歴史ある香取神社(佐原市) | 伊能忠敬記念館 |
江戸に護送された榎本は辰の口の牢獄に収監されたが、箱館の英雄だと知れると、牢名主は即日その席を譲った。明日も知れぬ運命であったが、幸いにも読書が許されたこともあり、差し入れられた洋書で勉強した。同じ牢の少年には漢学や洋学を教え、さしずめ牢内が塾に変貌した。 いままで幕臣のエリートコースを歩んできた榎本の獄中生活は、底辺でもがいている囚人との協同生活で、人間を一回りもふた回りも大きくした。出獄後も彼等の面倒を良く見たと伝えられている。 「海律全書」を渡された黒田は、人を介して翻訳を福沢諭吉に依頼した。噂に聞いた榎本の講義筆記に違いないと感じた諭吉は最初の4〜5枚を訳しただけで、「この海律全書はわが国にとってとても重要な本である。正しく訳せるのは講義を聴いた本人以外にいない」と言って、翻訳を断ることで榎本の助命を支援した。(福翁自伝より) 極刑を望む長州に対し黒田は丸坊主になり激しく抗議した。西郷隆盛の意見も通り、明治5年(1872)ついに釈放となった。 生まれ変わった榎本武揚のその後の人生を見ると、黒田が全力で守ろうとした榎本の器の大きさがわかるような気がする。 |
札幌農学校の伝統を受継ぐ 北海道大学農学部 |
黒田清隆が招いたクラーク 博士の像(北大構内) |
箱館戦争で敵味方の隔てなく治療 した幕府衝鋒隊古屋佐久左衛門の 弟、高松凌雲に因む凌雲中学校 |
黒田了介(清隆) |
年号 | 西暦 | 年齢 | 黒田了介のできごと |
天保11年 | 1840 | 1 | 薩摩藩士の長男として鹿児島城下に生まれる |
文久 2年 | 1862 | 23 | 随行の士として生麦事件に遭遇 |
文久 3年 | 1863 | 24 | 薩英戦争に参戦。江戸で砲術の免許皆伝 |
慶応 2年 | 1866 | 27 | 高杉晋作と交渉し薩長同盟を推進、西郷隆盛・桂小五郎の対面を実現 |
慶応 4年 | 1868 | 29 | 1月3日、鳥羽伏見の戦い。北陸道参謀となり長岡城攻戦、新潟港を占拠 |
明治 2年 | 1869 | 30 | 五稜郭の戦いの総指揮を執る |
明治 3年 | 1870 | 31 | 北海道開拓次官、樺太開拓使となる |
明治 4年 | 1871 | 32 | 米国、欧州視察 |
明治 6年 | 1873 | 34 | 屯田兵の創設。開拓使長官。陸軍中将 |
明治 7年 | 1874 | 35 | 樺太・千島交換条約締結 |
明治 9年 | 1876 | 37 | 日朝修好条約規を調印。開拓使仮学校を札幌農学校と改称し、クラーク博士を招く |
明治10年 | 1877 | 38 | 西南戦争で熊本城を攻撃 |
明治17年 | 1884 | 45 | 伯爵 |
明治20年 | 1887 | 48 | 初代の伊藤博文内閣の農商務大臣 |
明治21年 | 1888 | 49 | 二代内閣総理大臣 |
明治22年 | 1889 | 50 | 大日本帝国憲法の発布 |
明治25年 | 1892 | 53 | 二次伊藤博文内閣の逓信大臣 |
明治28年 | 1895 | 56 | 枢密院議長 |
明治33年 | 1900 | 61 | 死去、享年61歳。葬儀委員長榎本武揚 |
榎本武揚 |
年号 | 西暦 | 年齢 | 榎本武揚のできごと |
天保 7年 | 1836 | 1 | 幕臣榎本武規の次男として江戸で生まれる。通称釜次郎 |
弘化 4年 | 1847 | 12 | 昌平黌(昌平坂学問所)入学 |
嘉永 6年 | 1853 | 18 | 中浜(ジョン)万次郎の塾に学ぶ |
元治 元年 | 1854 | 19 | 箱館奉行の従者として蝦夷・樺太探索 |
安政 4年 | 1857 | 22 | 長崎海軍伝習所に入学、勝麟太郎を知る。国際情勢、蘭学、航海術を学ぶ |
安政 5年 | 1858 | 23 | 江戸の海軍操練所の教授となる |
文久 2年 | 1862 | 27 | オランダ留学、国際法、軍事、造船船舶、航海術などを学ぶ |
慶応 2年 | 1866 | 31 | 開陽丸と帰国の途に着く |
慶応 4年 | 1868 | 33 | 1月3日、鳥羽伏見の戦い。海軍副総裁となる。江戸城開城。8月19日、幕府艦隊を率いて江戸を脱出。蝦夷共和国設立、総裁となる |
明治 2年 | 1869 | 34 | 海律全書を黒田に託す。箱館戦争終結。降伏し投獄 |
明治 5年 | 1872 | 37 | 罪を許され新政府に登用 |
明治 7年 | 1874 | 39 | 海軍中将。駐露公使 |
明治 8年 | 1875 | 40 | 千島・樺太交換条約締結 |
明治13年 | 1882 | 47 | 海軍卿 |
明治20年 | 1887 | 53 | 初代伊藤博文内閣の逓信大臣 |
明治21年 | 1888 | 54 | 二代黒田清隆内閣の逓信大臣。電気学会初代会長(明治41年まで20年間) |
明治22年 | 1889 | 55 | 三代山県有朋内閣の文部大臣 |
明治23年 | 1890 | 56 | 子爵 |
明治24年 | 1891 | 57 | 四代松方正義内閣の外務大臣。東京農業大学(育英黌農業科)設立 |
明治27年 | 1894 | 59 | 五代の二次伊藤博文内閣の農商務大臣。日清戦争 |
明治29年 | 1896 | 60 | 六代の二次松方正義内閣の農商務大臣 |
明治30年 | 1897 | 61 | 足尾銅山の鉱毒事件の責任をとり農商務大臣を辞任 |
明治41年 | 1908 | 73 | 死去。享年78歳 |
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