クラーク博士と河井家の末裔

  少年よ!大志をいだけ。  W.S.クラーク
 札幌農学校を去るときに、クラーク博士が日本人に残した有名な言葉である。
そのそばには有能な越後長岡藩士だった森源三がいた。河井継之助の家族の扶養という重大な任務をおびてはいるが、追われるように長岡を後にした源三を久しぶりに見る姿である。

 明治9年(1876)マサチュセッツ農科大学の学長だったクラークは、かって長岡城を攻めたあの参謀黒田清隆(了介)に招かれ日本に来た。わずか8ヶ月で日本を去ることになったが、クラークの残した言葉は130年経った今でもその輝きを失っていない。

 継之助の母「貞子」、妻「すが」が、北海道でクラークに会ったかは分からない。しかし源三を介して北の大地でつながっていた。やがて札幌農学校の校長となった源三は、新渡戸稲造、内村鑑三などを世に送り出すことになる。
「札幌農学校の校長になった長岡藩士(森源三の写真)」
北海道大学構内にたつ
クラーク博士像
継之助の親族が残した北大のポプラ並木 ポプラ物語
(秋庭功著)
源三から買い取った
三井クラブ(札幌市)
今は北海道知事公舎 北海道知事公舎にある森源三夫妻

河井家の
遺族扶養
 継之助と山本帯刀は戦死、戦争の責任を一身におわされ両家は断絶となる。前藩主牧野忠恭(隠居し雪堂)は、 藩士毛利(森)一馬の弟広之丞(源三)に新知百石を与え、継之助の親族の扶養を命じた。
河井家の家名再興が許されるのは明治17年(1884)のことである。
森 源三  天保6年(1835)長岡藩士毛利忠平の次男として生まれる。長男は砲術師範毛利(森)一馬、この弟にあたる。 一馬は韮山代官江川太郎左衛門に砲術とフランス式調練を学び、藩の西洋式軍隊の創設に貢献した。初代長岡千手小学校の校長となった人である。
弟も藩主から河井家の扶養を命ぜられるほどの人格者である。兄と同じように江川塾で砲術を学び、薩摩藩士黒田清隆(了介)とは同門である。
継之助のすぐ上の姉「千代」の次女「まき」と結婚する。

 明治2年(1869)に開拓使が設置され、開拓使仮学校、札幌学校の時代を経由し、明治9年(1876)札幌農学校が開校した。開拓使仮学校の時代から農学校に携わっていることから、黒田と同門だったことによるのだろうか。
クラーク博士はこの年、札幌農学校の教頭として招かれた。この時の校長は調所広丈(ずしょひろたけ)で源三は事務の責任者であった。

 明治13年(1880)第1回卒業式を挙行、翌14年には開拓権少書記官の源三が校長を兼務した。
第2回の卒業生には新渡戸稲造、内村鑑三などが名を連ねる。
同年には明治天皇が札幌農学校に行幸され、校長の源三が説明するという光栄にあずかった。はからずもかって朝廷に弓を引いた源三には、名誉が回復された晴の舞台となった。

 明治19年(1886)には、慈眼寺で談判を拒否した岩村精一郎の長兄の通俊が、初代道庁長官で赴任してきて一時期苦労もしたが、明治21年には黒田が総理大臣に昇進し北海道開拓を援護した。
源三は妹背牛町開拓の祖と言われたり、北海道知事公館(三井クラブ)の所有者として名を残す。
晩年は第1回の民選衆議院議員として活躍したが、黒田の死を聞き政界から引退した。明治43年76歳で亡くなった。
黒田 清隆  天保11年(1840)薩摩藩士の家に生まれる。西郷隆盛に従い、坂本龍馬と薩長同盟に貢献する。越後から奥羽、函館と転戦し、五稜郭では榎本軍を降伏させる。
榎本武揚の助命を歎願したり、女子教育にも熱心で明治4年(1871)には少女5名をアメリカに留学させている。五稜郭に立てこもった榎本や大鳥圭介は許され黒田のもとで活躍する。

 樺太開拓、北海道開拓に熱心で、教育による人材の養成に力を入れ、クラークの招聘にも尽力した。
陸軍中将そして総理大臣に栄進する。
歴史を振り返り、慈眼寺の会談の相手が黒田清隆でなかったことが惜しまれる。
クラーク
博士
 マサチュセッツ農科大学の学長。南北戦争では陸軍大佐として、リンカーンとともに戦う。
少年よ!大志をいだけ。このあとの言葉はあまり知られていない。

「少年よ!大志をいだけ。それは金銭や我欲のためにではなく、また人呼んで名声という空しいもののためであってはならない。 人間として当然そなえていなければならぬ、あらゆることを成しとげるために大志をもて」(北海道大学のホームページより)
クラークの残した教えは、札幌農学校の歴史を持つ北海道大学に、そして日本人の心に今も残る。
ポプラ物語  北海道大学のポプラ並木は、札幌農学校長森源三の長男である森広が、明治36年にアメリカから持ち帰った苗木が原形になっている。
札幌農学校で森広の同級生だった有島武郎は、アメリカ留学の広と追いかけた女性を題材に小説「或る女」を書いた。この女性は国木田独歩のかっての妻である。小説ではアメリカの婚約者を訪ねた女性が、船中である男性と恋仲になり、婚約者に去られる悲劇の男性として描かれているが、実在した広は作品とは異なり、北大に学びアメリカにも留学した聡明な男性である。

 森広の弟が森茂樹で、明治17年(1884)に復興なった河井家を継ぐことになる。すなわち河井継之助の養子で、父は森源三、母は継之助の姉「根岸千代」の次女「まき」である。
森家の屋敷跡には大きな松があるという。これは継之助の母貞子が長岡を去るときに、息子が愛した蒼龍窟の松の根元にあった小松を持ちこんだとのことである。機会があれば北大のポプラ並木とともに蒼龍窟の子供の松も見たいものだ。
時計台 札幌市全景 札幌スタジアム

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