勝海舟の祖先が長鳥村出身説の根拠


「勝海舟の曾祖父は米山検校」である。そして「長鳥に米山検校の御礼塔」がある。
この二つは誰もが認めるところである。しかし、「両方にでてくる米山検校が、同一人物か疑わしい」と考える人がいるかも知れない。この疑問には、宝暦の飢饉が起こった宝暦5年〜7年(1755〜57)の前年に、米山検校が長鳥村を領地とする高田藩に出した、盲学校設立の嘆願書が、「勝海舟の祖先は長鳥説」を明らかにしてくれる。

勝海舟の祖先は米山検校 飢饉を救った米山検校
嘆願書には、越後国松平越中守御領の、三嶋郡長鳥村で米山検校は出生したことが明白に書かれている。検校が生まれた時は長鳥は松平越中守が統治した時代で、松平家は白河藩から桑名藩に移って幕末を迎えるが、そのまま柏崎の統治が桑名藩主松平定敬の時代まで続くのは興味深い。
一方、榊原家は高田藩15万石として幕末を迎え、西軍の越後進行の拠点となった。

三嶋郡(みしまぐん)については、現在の刈羽郡を何時まで三嶋郡と呼んだか、そしてその領域の細かいことは調べてないが、ある時に、三嶋が刈羽に呼称が変わったのは事実である。このことは、旧長岡市も属していた古志郡から、三島郡(さんとうぐん)が分離する時とほぼ同時期のようである。


50歳を過ぎた検校は、盲人の置かれている厳しい状況を憂いて、盲人学校の設立を幕府に働きかけた。盲人の社会的な地位の向上には、多くの人が教育を受けられる環境を整えたかったのである。特に越後では、風土病に近いほど目の悪い人が多かった。そして、先ず盲人の多い越後から開校し、そこから広げたいとした。

結果的には反対がでて実願しなかったが、日本でこの種の学校ができるのは、100年後のことである。
明治11年に、初めて天皇が北陸御巡幸をされるが、越後の盲人の多いことを憂いて、多額の御下賜金を賜ったと伝えられている。
<参考書籍:勝海舟のすべて(小西四郎:新人物往来社)>

御野立公園からの鯨波 御野立公園の天皇巡幸の碑 明治11年、刈羽郡鯨波邨・・・

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