牧野家のふるさと(牧野城とその周辺)


応永年間(1394〜1428)に、田内伝蔵左衛門成富が讃岐から熊野を経由して、三河国宝飯郡牧野に住み牧野姓を名乗る。牧野は豊川が湾曲した内側の地で、ここに牧野城2、讃岐屋敷3、牧野一族の墓所3がある。

豊川周辺図(クリックで拡大

東三河で最初に築いた牧野城

周りが平坦な地であるので土塁が目立つ牧野城跡

讃岐から渡ってきた牧野一族が東三河で築いた主な城は、牧野城、瀬木城、今橋城、牛久保城があるが、その中でも牧野城は田口氏から牧野の地名を取り、牧野氏と改めて最初に構えた城である。子孫の牧野古白は、主君一色氏を倒し家臣の波多野全慶を、一色城に攻めるために中間に瀬木(せぎ)城を築いた。波多野氏を討った古白は一色城に入り、息子を牧野城と瀬木城入れた。
この地方で勢力を拡大した古白は、今橋城(後の吉田城)を築き移り住んだ。このため牧野城は永正2年(1505)に廃城となったと伝わる。
周りは住宅と畑地であるが、約3mの高さの土塁が残されている。土塁を登ると頂に牧野城址の碑と小さな屋代が建っている。、


木にカズラが巻付きうっそうと見える 土塁の上に小さな屋代
屋代の中の地蔵 途中で見えた瀬木城


讃岐屋敷の由来

讃岐屋敷の屋敷門、内側はさぬき公園

今橋城に移った古白は、牧野城を廃城にするが、長男の能成をこの地に残し、城の近くに居館を構えた。一族が讃岐から移ってきたことに因み讃岐屋敷と呼ばれ、一族の牧野康成が大胡に移ってからも、子孫はこの地に住み続けた。

いまでは屋敷門だけが残り、屋敷跡は「さぬき公園」となっている。門の屋根瓦には三ツ葉柏の紋はいっており、かっての牧野家の屋敷跡を伝えている。
近くの民家の表札を見ると「牧野」姓で、讃岐屋敷を守ってきた一族の末裔であろうか。


先ずは公園の外から観察 屋敷門の内側から
全ての瓦に牧野家の紋 屋敷門の鬼瓦
讃岐屋敷之碑 応永年間に讃岐より来る
讃岐屋敷跡はいまは公園 公園から屋敷門方向


牧野家の墓所

牧野に残った牧野家の墓所

牧野に残った牧野家の墓所とされ、新旧の墓石がたくさんある。牧野に残った一族の牧野能成の墓は、天文22年(1553)が明瞭に読める。翌年の天文23年に、松平竹千代(後の徳川家康)が13歳で元服し、松平元信と名乗るほど昔のことである。
さすがにそれよりも古そうな墓石は、文字が風化して読めない。数ある墓石をつなぎ合わせれば、牧野家の歴史がもっと解明できるのであろう。
一番目立つのは上の「紀昌成之碑」であるが、小諸藩主の子息の子爵牧野康強の文字が読めるが、いわれは全くわからない。

牧野家墓所の入口 古い墓石が並ぶ
地元に残った牧野能成の墓 天文22年の墓石
最も古そうな墓石 こちらも古い

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