文久2年(1860)閏8月、会津藩主松平容保が京都守護職、長岡藩主牧野忠恭が京都所司代に任命された。このころの京都は、攘夷派の過激な志士が横行し、テロも頻繁に発生していた。
長岡藩の京都所司代就任については、幕府への忠誠心が厚いことと、越後にも飛地を多くかかえた会津藩の強い働きかけがあったという。
藩主忠恭に呼び出され、京都に赴任した継之助が見たものは、薩摩、長州など西国大藩の攘夷を隠れ蓑にした倒幕工作であった。朝廷を巻き込んだ政争により、幕府の権限は失墜し、京都の秩序は無法化していた。過激派志士は足利将軍三代の木像の首まで引き抜き、加茂川に晒した。
文久3年3月、将軍徳川家茂が上洛した。将軍が京に入るのは二百数十年ぶりのことである。朝廷と攘夷を目指す西国諸藩は、天皇の賀茂神社や石清水八幡宮の行幸に家茂に供をさせ、将軍の権威の失墜と幕府の無力化を謀った。
西国諸藩は日本に軍事力がなく、攘夷(外国を追い払う)が困難なことを知りつくした上での攘夷要求であるから、これは明らかに攘夷の名のもとに倒幕を狙ったものである。将軍家茂は攘夷実行の日を5月10日に約束させられ、やっと江戸に帰ることを許された。
京都の治安維持が越後の一小藩の力の及ぶところでないと悟った継之助は、藩主に京都守護職の辞任を勧め、藩政改革こそ長岡藩が時世を乗り切る最も急務なことであると決意し、継之助は帰国の途についた。
傷心の将軍が江戸に向かうのを待って、長岡藩主牧野忠恭は京都所司代を辞任した。
西国諸藩にひとかけらの正義もなく、継之助は決して許せぬ憤りを持っての京都からの帰国であった。
「たかが7万4千石」と、継之助はいった。長岡藩はおそれながらごまめ(片口いわし)でござりまする、という。とても所司代などはつとまりませぬ。
「わしは、ごまめか」(藩主忠恭)
「左様」継之助はうなずいた。 (司馬遼太郎「峠」より) |