佐久間象山の教え子

 小林虎三郎は嘉永4年(1851)、24歳で佐久間象山の門に入った。入門の経緯は象山が天保9年(1838)新潟において、新潟奉行の虎三郎の父又兵衛と知り合い、虎三郎の教育を頼んだことに始まる。

 虎三郎の入門から少し遅れて、吉田寅次郎(松陰)が入門してきた。象山は多くの門人の中でも偉才を放つ、虎三郎と寅次郎には期待するところが大きかった。
「松陰の胆略と虎三郎の学識、皆稀世の才なり。ただ天下に事を成すのは松陰で、わが子の教育をせしむべき者は虎三郎ただ一人である」(佐久間象山)

 虎三郎は入塾二年で塾頭になる。「象門の二虎」と言われた二人は、黒船の来航で運命が大きく翻弄される。
黒船で密航を問われた松陰が、幽閉された野山獄から師象山に手紙を送った。

「私(松陰)が先生(象山)に初めて会ったとき、虎三郎が紹介してくれた。
虎三郎は天然痘で顔にあばたがあり私と同類。年齢も同じくらいで、名前も偶然「虎」で同じである。ただ違うのは虎三郎には才能があるが私にはないことだ。
虎三郎は先生との関わりで罪を負うことになったが、私は罪を犯して先生に迷惑をかけてしまった。」(松陰の象山平先生に与ふる書より要約)


 松陰と虎三郎、ライバルとしてお互いを認め合った二人の関係が見えるようだ。

 象山とその教え子たち
佐久間象山 小林虎三郎 吉田寅次郎 河井継之助 坂本龍馬 勝海舟

佐久間象山 佐藤一斎、江川太郎左衛門に学んだ信州松代藩士で、幕末の思想家、兵学者である。
象山塾には長岡藩士以外にも勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬などが名を連ねる。吉田松陰の密航事件に連座した象山は国元蟄居となり江戸を去った。
蟄居は8年間にもおよび、許されたのは文久2年(1862)である。

元治元年(1864)、動乱の京都で開国佐幕派の策士として活動していたが、尊皇攘夷派の刺客によって暗殺された。
継之助とは性格が似通っており、古賀塾で筆写した「李忠定公集」12冊に題字を贈った。
象山の妻は勝海舟の妹である。また息子の格二郎の教育を虎三郎に託したが、格二郎は明治10年に29歳で亡くなる。
松代藩では、真田幸村、恩田木工(もく)と並んで知られる英雄である。
象山の塾生 象山塾からは幕末の風雲児坂本龍馬や勝海舟など数多くの偉人が誕生したが、師も認めるように小林虎三郎と吉田松陰は出色の人物である。
謹慎や投獄で活躍を制限されたことは誠に惜しい。

   象山塾の主な塾生
嘉永3年(1850)勝海舟
嘉永4年(1851)小林虎三郎、吉田寅次郎(松陰)、宮部鼎蔵(松陰の友、池田屋事件で死亡)
嘉永5年(1852)河井継之助、加藤弘之(後の東大総長)
嘉永6年(1853)坂本龍馬
嘉永7年(1854)橋本左内、真木和泉
   ?       三島憶次郎
黒船来る 嘉永6年6月3日、ペリー提督がアメリカ合衆国大統領の国書を持って浦賀にやってきた。象山はただちに浦賀へ急行し、妻の兄である勝海舟から貰った望遠鏡で黒船をつぶさに観察した。

6月12日、ペリーは国書の回答を1年後に延期を認め江戸湾を去る。
 太平の眠りをさます上喜撰(じょうきせん)たった四はいで夜も眠れず
黒船再来航 嘉永7年1月16日、日米和親条約の締結で、ペリーが軍艦七隻を率いて再び来航した。
幕府は下田を開港を決めたが、象山は有事の際に江戸から遠い下田開港に反対で、戦略的に横浜を考えていた。

虎三郎は象山の意向に従って、下田開港反対の建白書を老中の長岡藩主牧野忠雅に提出した。象山は虎三郎を使って、海防掛老中の忠雅から筆頭老中阿部正弘に働きかけたのである。
虎三郎は一書生の身でありながら国政に口をだしたことで、帰郷謹慎を命じられた。

同時期に川島(三島)憶二郎も政論の提出で帰郷させられた。
国許で謹慎の二人とは対照的に、継之助の献言は評価され、部屋住みから評定方賄役に抜擢されたのである。
松陰の密航 嘉永7年3月27日夜、ミシシッピー号に二人の男の乗った小舟が近づいた。小舟には松陰と同僚の金子重輔が乗っており、アメリカへの渡航を希望したが実現しなかった。

密航の企てが露見することとなり、松陰は伝馬町から萩の野山獄に護送された。
この密航事件に象山も連座するところとなり、伝馬町につながれ、そして国元の松代での蟄居となった。
横浜開港 安政6年(1859)5月、象山が主張した横浜がついに開港した。
山田方谷の
佐久間評
方谷は江戸の佐藤一斎塾で象山と同門であった。ライバルとして常に論争したが、いつも方谷が論破したという。
方谷を訪ねた継之助に「象山には温良恭謙譲の一字の何れもない」と語ったと塵壷にある。
温(おだやか)良(すなお)恭(うやうやしい)謙(つつましい)譲(ひかえめ)のことで、孔子の5つの徳のことをいう。

初対面の継之助に、「封建の世において、人に使われることができないのは、つまらないもの」とさとし、象山に似た性格の継之助の将来を憂慮した。

歴史とロマンの町上田、
駅前に建つ真田幸村像
信州松代藩真田家
菩提寺の長国寺
今は幻、太平洋戦争で大本営
がおかれた象山地下壕
真田邸入口 真田邸 上田市のマンホール

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