河井継之助の恩師『山田方谷』

「山田先生に伝えて下さい。継之助はいまのいままで先生の教えを守ってきましたと」河井継之助は死の直前に、 備中松山藩出入りの商人に言伝てを頼んだ。

継之助は斎藤拙堂、古賀茶渓、佐久間象山などの門に学んだが、33歳の時に備中松山藩で生涯の師山田方谷とめぐり合った。方谷を訪ねる旅は旅日記「塵壷」に残されている。

改革者山田方谷は近年ふたたび注目されており、NHKテレビ「山田方谷・奇跡の藩制改革」(2005)が放映され反響を呼んだ。今年は方谷の生誕200年にあたり、岡山県高梁市では各種の記念行事が計画されている。JRで全国唯一人名が付いた「方谷駅」でも知られる。

山田 方谷 文化2年(1805)備中松山(岡山県高梁市)の農家の長男として幼いころから学問に能力を発揮し、その才能が認められ松山藩士に取り立てられた。29歳のときに江戸に留学し陽明学者佐藤一斉に学んだ。信州松代藩士佐久間象山と佐藤門下の二傑といわれる。
32歳で江戸から戻った方谷は、藩校「有終館」の学頭に就任する。以後、45歳までは藩主の後継ぎの教育を任されるなど人材育成に力を注いだ。

板倉勝静(かつきよ)が新しい藩主になると、勝静は自分の教育係だった方谷を藩制改革の切札として元締役に抜擢する。
実践的な陽明学を藩制の中心に据え、鉱山開発など積極的に産業を興し、文武を奨励し、新田の開発を進めた。 また信用を失った藩札を買い集め、領民の前で焼き、新しい藩札の信用度を高めた。農兵隊を編成し、新式銃を持たせ、大砲の鋳造を始めた。 洋式の徹底した軍事訓練では、長州の久坂玄瑞を驚かせた。

方谷の名声を聞き、全国の諸藩から方谷に教えを請う者が絶えなかった。継之助もその一人である。
継之助が備中松山から帰途につくとき、譲り受けた「王文成公全集」を肩から下げ、舟で対岸に渡った。そして見送る方谷に土下座して拝した。

方谷は長岡市から「故長岡藩総督河井継之助君碑」の碑文を依頼された時、碑文の辞退とともに、愛弟子の継之助に贈った句が、「碑文(いしぶみ)に書くもはずかし死に後れ(山田方谷)」であった。
三島 中州 天保元年(1830)備中に生まれる。 山田方谷、斎藤拙堂に学ぶ。方谷の塾頭となり推挙されて備中松山藩に仕える。江戸に遊学し昌平黌に入り、佐藤一斉、安積艮斎に師事する。
継之助が松山に来遊したときの中州との交わりは、継之助の旅行日記「塵壷」に詳しく記されている。

板倉勝静に仕えて奉行格まで進む。明治維新後は司法省に出仕する。その後東京高師、東大教授となる。 二松学舎大学の前身となる漢学塾を創立し、夏目漱石も二松学舎で中州の教えを受けた。
方谷が何よりも貴んだ「義」と「誠実」は、建学の精神として二松学舎の中に生き続けている。

師の方谷は明治新政府から大蔵大臣の就任を要請されたが、高齢を理由に拒んだ。そのため方谷は歴史の表舞台から姿を消した。しかし改革の求められている現在、偉大な中州とその師である山田方谷が再び注目されている。

中州は継之助を死に追いやったことで薩長を責め、現在悠久山にある「故長岡藩総督河井継之助君碑」の建立では、方谷に代り千数百字の碑文を残した。
旅日記
「塵壷」
安政6年6月7日の江戸出立から、備中松山に着くまでの紀行文、山田方谷の下で従学した記録、四国から九州で見聞した紀行文、 山陰を旅しながら江戸に帰る紀行文の4編で構成されている。

塵壷からは幕末における各地の動向や、ありのままの継之助を知ることができる貴重な資料である。原文は長岡市立中央図書館に保管され、ホームページで公開されている。
長岡市立中央図書館
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「故長岡藩総督河井
継之助君碑」の中州
JR伯備線備中高梁駅の北西方向3駅目に方谷駅が見える JR伯備線
方谷駅
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