新潟に来なかった榎本武揚「幕府艦隊」の謎

 奥羽越列藩同盟の成立した慶応4年(1868)5月、新潟港は米沢、仙台、会津、庄内の4藩の協同管理下にあった。無政府状態で開港を迎えた新潟で、各国は列藩同盟に大量の武器を引き渡し、蚕種を持ち帰った。江戸城無血開城が4月11日だから、この時点で幕府艦隊は無傷のまま江戸湾に浮かんでいたことになる。

 同盟軍は当時無敵の幕府艦隊に期待し、新潟港管理の中心だった米沢藩は榎本武揚に応援を要請し、榎本も米沢藩の使者に「艦隊は佐渡に割拠し、越後の海路を遮り、越の応援を致し候」と答えた。
しかし、幕府艦隊は江戸湾から動かなかった。米沢、会津の精鋭部隊が新潟港を死守したが、やがて新政府軍の握るところとなり、同盟軍の補給路は絶たれた。

 タラレバであるが、幕府艦隊が新潟に来て制海権を確保するか、あるいは艦隊が敵の薩摩、長州に向ったとしたら、ここでも別の維新が見られたかも知れない。
歴史の真実は、前将軍徳川慶喜が水戸から駿府に移り、会津の劣勢がはっきりし、列藩同盟が崩壊するのを待つかのように、幕府艦隊は北に向うことになるのである。
幕府艦隊  主な船は、
  開陽丸(1865年、オランダ、2800トン)
  回天 (1853年、プロシア、1450トン)
  長鯨 (1864年、イギリス、 996トン)
  蟠竜 (1858年、イギリス、 370トン)
  神速 (1858年、アメリカ、 250トン)
  千代田形(1866年、日本、 138トン)
などで、各国で製造された船で、さながら当時の船の見本市を思わせる。主力艦は開陽丸と回天で、蟠竜はイギリスのヴィクトリア王女から幕府への贈り物である。艦隊を率いていたのは海軍副総裁榎本武揚であった。
慶応4年(1868)8月19日、やっと幕府艦隊は品川沖から北に向う。
開陽丸  幕府の誇る軍艦開陽丸は、慶応元年(1865)オランダで進水した。注文したのは幕府である。排水量2800トン、全長約72m、大砲35門、乗務員400名、蒸気機関で走る時の速さは10ノットという、当時としてはオランダの技術が濃縮された軍艦といえる。
慶応元年(1865)
:幕府発注の開陽丸完成、進水式に榎本武揚ら留学生が出席
慶応2年(1866):榎本ら日本に向けて出航
慶応3年(1867)3月:大西洋、南米、インド洋経由で横浜に着く
慶応4年(1868)1月6日:開陽丸で将軍が大坂を脱出、4月11日:江戸城開城、5月3日:奥羽越列藩同盟成る、8月19日:幕府海軍江戸湾脱出、22日:暴風で「美加保」沈没、「咸臨丸」静岡沖に漂流、24日:松島湾に入る、9月22日:会津藩降伏、10月20日:蝦夷鷲ノ木に上陸、11月8日:各国が榎本政権を承認、11月15日:開陽丸江刺沖で座礁・沈没
回天  イギリスが設計し、プロシアで建造した船で、開陽丸が登場するまでは日本最強の軍艦であった。プロシアからイギリスに渡り改装修理の後、慶応2年(1866)幕府が購入し、蟠竜とともに海軍の主力艦であった。
江刺沖での開陽丸の沈没により、幕府軍と新政府軍艦隊の均衡が破れ、幕府軍は止むなく宮古沖に集結した新政府軍の主力艦である甲鉄を奪う作戦にでた。幕府軍は回天の>艦長をはじめ多くの戦死者をだしたが、甲鉄を奪うことができなかった。
榎本武揚 天保7年(1836):8月、幕臣の二男に生まれ、昌平黌に学ぶ
安政3年(1856):海軍伝習所に入る
文久2年(1862):軍艦をオランダに発注するに伴いオランダへ留学
慶応3年(1867):開陽丸で帰国
慶応4年(1868)1月:海軍副総裁に就任、8月:江戸湾を脱出し北に向う、10月26日:五稜郭入城、12月15日:新政権を樹立し総裁就任
明治2年(1869)5月18日:五稜郭で降伏、戦争終結、黒田清隆が助命に奔走
明治5年(1872):罪を許され、黒田が開拓使に抜擢
明治7年(1874):海軍中将に昇進
明治21年(1888):農商務大臣となる
明治41年(1908):死去、享年74歳
蝦夷の共和国を夢見た榎本であるが、艦隊が強力であったが故に、過信してタイミングを失してしまった嫌いがある。五稜郭が落ちる直前に、榎本が宝にしていた最新の国際法が記された「万国海津全書」を、日本の将来のため敵方に渡した。 黒田清隆は、榎本の才能を惜しんで助命に奔走した。許されてからは戊辰戦争のことはほとんど語らなかったというが、なぜ新潟港に来なかったかは聞いてみたい気がする。

開陽丸 榎本武揚 甲鉄(スト−ンウォール号)

 幕府艦隊の最初のつまずきは、江戸湾を脱出し北に向っていた慶応4年(1868)8月22日、銚子沖で暴風にあったことである。
美加保は沈没、日米修好通商条約の批准で、勝海舟艦長のもとに太平洋を渡ったことで知られる咸臨丸は下田まで流された。
同じころ会津では、悲劇を生むことになる白虎隊が、暴風雨の中をさまよっているので、多分この日は台風に遭遇したのであろう。

 ふたつめは江刺沖での開陽丸の沈没である。明治元年(1868)11月12日、選挙で総裁に就任した榎本は、蝦夷地の独立を宣言した。ところが独立宣言の3日後に、江刺沖で無敵だった開陽丸が暴風雨で座礁・沈没した。 榎本は開陽丸の難破をひた隠しにしたが、各国の知るところとなった。開陽丸で均衡していた榎本政権と新政府の評価が大きく変わってしまい、榎本政権は各国から承認を失ってしまった。

 ここで歴史を動かす1隻の軍艦が登場する。幕府がアメリカに発注していたストーンウォール号である。既にストーンウォール号は江戸湾にあり、中立の立場を取ったアメリカは戊辰戦争の行方を見守っていたが、開陽丸の難破でストーンウォール号を新政府に渡すことを決めた。 それまで日本にあった軍艦は全て木造船であったが、この船は外側に12cmの鉄板の鎧をつけ、最新のアームストロング砲を装備していた。ここに新政府の軍艦「甲鉄」が誕生し、海軍の力は逆転した。

 明治2年(1869)3月25日、開陽丸を失ったあと回天を中心とする幕府海軍は、宮古沖で最後の望みをかけて甲鉄の奪回に動いた。しかし甲鉄の甲板に据えられたガトリング砲の威力に、もはやなすすべがなかった。 最後の決戦となる五稜郭でも甲鉄の長距離砲アームストロングが火を噴き、開陽丸の沈没で形勢が全く変わったことを知らされた。

波乱の軍艦
「甲鉄」
 南北戦争の渦中にあったアメリカの南軍は、フランスのボルドーの造船家に甲鉄付きの軍艦の建造を依頼した。しかしフランス政府は南軍への引渡しを拒否した。 そこで第三国経由での引渡しを模索し、スウェーデンに売却、さらにデンマークが買い取った。北軍の目をかすめるためスペイン本国を経由し、スペイン領ハバナに入港させた。しかしハバナに入った時点で南北戦争は、南軍の降伏で終結していた。
 アメリカ海軍はこの軍艦ストーンウォール号を徳川幕府に売ることにし、南米の南端を大きくまわり、ハワイ経由で、慶応4年(1868)4月2日に江戸湾に入った。江戸城開城が11日であるからその直前である。いったん横浜に係留されることになるが、この年の末までアメリカ国旗(星条旗)を掲げ、戊辰戦争の結末を見ていた。
開陽丸の難破で新政府軍が圧倒的に有利となり、明治2年(1869)1月にアメリカは新政府にストーンウォール号を売却した。
これが甲鉄で、1400トンながらも300ボンドのアームストロング砲を装備し、開陽丸を凌ぐ最強軍艦となった。ラム(衝角)艦で砲撃後は、厚い甲鉄の鎧で敵の軍艦に体当たりして撃沈させる物騒な軍艦であった。
甲鉄に装備の
ガトリング砲
 甲鉄の甲板にはガトリング砲が据え付けられていた。長岡城の攻防戦にもガトリング砲は登場するが、甲鉄のように定位置にに据え付けた使い方が威力を発揮しそうである。
切り込んだ回天の艦長・甲賀源吾はガトリング砲で倒れた。また回天には土方歳三が乗っていたとの説もある。

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