幕末維新祭りに柏崎が初参加


東京の世田谷区の東急世田谷線の松蔭神社前駅の近くに松蔭神社がある。
毎年、松蔭の命日にあたる10月27日に近い休日に、「萩・世田谷幕末維新祭り」が開催され、今年で第17回を数え、25日(土)、26日(日)の両日に開催される。
そこには萩と会津若松が観光物産展を出しているが、今年から新潟県の柏崎市が加わることになった。
昨年の中越沖地震の柏崎の被害は甚大で、ここには東京電力の柏崎・刈羽原発があり、関東地区に住む者にとっても復旧は他人事ではない。また近年は風光明媚な「海の柏崎」、蓮池薫さんのふるさとでも知られている。
でもなぜ柏崎が参加するに至ったか、理由を知るとなるほどと思われるに違いない。

長州毛利藩のルーツは柏崎だと言ったら、歴史家といわれる人でも容易に納得はしない。長州毛利藩は安芸(広島県)の吉田でしょう。さらに詳しい人は神奈川県の厚木市に毛利のルーツがあるという。
厚木市に毛利の地名が残り、毛利のふるさとには違いない。でも柏崎は長州毛利にとって、忘れてはならないふるさとなのである。

2001年(平成13年)のNHK大河ドラマの主人公は、第8代執権の「北条時宗」で、主演の和泉元彌を覚えておられる方もあろう。
この物語のイントロでは、高橋英樹が演ずる毛利季光(すえみつ)が、三浦泰村の乱(宝治合戦)で、娘を嫁がせる第5代執権北条時頼につくか、妻の兄の 三浦泰村につくかで悩むシーンである。
一族の繁栄を考えれば当然娘婿で執権の時頼であるが、妻との間の「武士の義」をたて、季光は負けを覚悟で三浦方に助勢した。


結果は火を見るよりも明らかで、反幕府の三浦側の大敗で、三浦一族郎党は鎌倉の源朝頼ゆかりの法華堂で五百余名が自刃して果てた。
この中には毛利季光を初め、長男、二男、三男そしてその子らも含まれていた。
毛利の名の起りの相模毛利荘は没収となり、朝頼に請われて京都から来た、大江広元に繋がる名門毛利家のあたかも終焉に見えた。

ところが運よく、四男の経光が越後国佐橋荘(佐橋庄:さはしのしょう)にあり、徹底した三浦一族の残党狩りにもかかわらず、越後に生き残ったのである。
経光のきょうだいで時頼の正妻になった涼子(あきらこ:浅野温子)の懸命な願いもあろうが、佐橋荘は安堵され、やがて経光は許された。
涼子は父と一族の仇として執権北条時頼を許すことはできなかったが、愛の薄い二人の間に生まれた子が北条時宗(和泉元彌)である。

経光には佐橋荘で生まれた4人の息子があり、長男基親に佐橋荘北条(きたじょう)を与え、四男の時親(ときちか)を毛利館のある佐橋荘南条(みなみじょう)に住まわせ、南条と安芸国吉田荘を与えた。長州毛利家の祖先は、この時親とする歴史書が多い。そして、遠国の吉田荘には曾孫の元春をおいて統治させた。

四男時親は長州毛利家の先祖になったが、長男基親は不遇でその名を残すことはなかったが、その子の時元は越後の名門北条毛利の祖といわれる。
北条毛利からは石曾根毛利、安田毛利、善根(ぜごん)毛利などにわかれ、 後の北条高広などは上杉謙信配下の猛将として知られる。

しかし、越後毛利も謙信亡き後に発生する御館の乱(おたてのらん)で、越後を二分して戦うのである。
この後の越後毛利の運命は来年のNHK大河ドラマ「天地人」を待とう。

佐橋荘は現在の北条一帯であるが、地元の人に聞いても何処のことかわからない。佐橋荘だけでなく佐橋神社はもう幻になったのだろうか。
ややこしいが、鎌倉幕府の北条は「ほうじょう」と読むが、北条毛利や北条の地名は「きたじょう」と読む。

一文字に三ツ星、ここは北条毛利街道 ようこそ毛利と勝海舟のふるさと北条へ
長州毛利に繋がる越後毛利 南条館跡に建つ佐橋神社
八石山を背に毛利のふるさと佐橋荘 勝海舟の先祖米山検校のふるさと
村の飢饉を救った米山検校の御礼塔 勝海舟のふるさとで見た咸臨丸

NHK大河ドラマ「篤姫」は人気がある。最近は時代物に若い女性が関心を持っているようである。
勝海舟は北大路欣也で、彼は時代物をやらせたら抜群の演技をする。
勝海舟は坂本龍馬に航海術を教えた先生で、幕府軍総裁として西郷隆盛と談判し江戸城無血開城を果たした幕末の偉人である。
毛利だけでなく勝海舟まで柏崎といったら、少しいいとこ取りと非難されそうであるが、でも次の話を聞いて欲しい。

江戸時代中期、勝海舟の曽祖父の米山検校が、北条とほぼ同じ地域の柏崎市長鳥(ながとり)の山村から江戸に出た。
盲目の按摩さんの最高位が検校で、越後では栄養不足から盲目が多く、越後瞽女(ゴゼ)などもその代表的なものである。もちろん長鳥をでて、近年は花火で有名な小千谷の片貝(かたかい)で修行したころは、検校の名前は名乗ることはできない。
江戸で事業に成功し巨万の富を得て検校を名乗り、子の平蔵に「男谷(おたに)」という御家人株(のちに旗本に昇格)を買い、平蔵の三男小吉には「勝」株を買い与え、形の上では養子にだした。 これが海舟の父の勝小吉である。

日本一の剣客男谷精一郎とは従兄弟にあたり、子供の頃は男谷家で暮らし、剣術は精一郎の弟子の島田虎之助に学び、直心影流の免許皆伝となる。また男谷の親類、阿茶の局を介して11代将軍徳川家斉の孫の初之丞の遊び相手となり、幼くして江戸城にあがる幸運もあった。
米山検校が柏崎から江戸に出ていなければ、坂本龍馬も勝海舟もなく、明治維新も違ったものになったであろう。

一般的に柏崎は、長州毛利よりは勝海舟の祖先の出身地としては知られている。これは米山検校が村が飢饉の時に、数度に渡り米を送って村を救ったことで、村の各所に御礼塔に名を残し、村の恩人として尊敬されているからである。

海舟は明治32年まで生き、一時は自分のルーツを探したが、山上家の実家では、相手が伯爵であまりの身分の違いに、違うと答えたと聞いたことがある。
柏崎市の長鳥が勝海舟の祖先のふるさとであることは、まだそれほど昔のことではなく、多くの歴史家が認めていることから、紛れのない事実である。
集落を挟んで砲撃戦、鯨波戦争である 目立つ山口藩士の墓
西軍戦士の招魂所 無数の戊辰墓石
こちらは桑名藩の慰霊墓碑 桑名藩陣屋跡、柏崎県庁跡

説明がなくて画像が先行したが、右上の画像は山口藩と読める。
柏崎は会津藩主松平容保の実弟で、京都所司代の桑名藩11万石松平定敬の領地で、柏崎にはほぼ半分の5万石を領していた。定敬は河井継之助の仕立てた船で、江戸から越後に入ってきた。この時、船倉にはやがて新政府軍(西軍)を悩ませることになるガトリング砲が積まれていた。

高田に終結した西軍は、海道と山道にわけ、海道軍は会津・桑名の連合軍を撃退して長岡に迫り、山道軍は会津領小出島(現南魚沼市)から小千谷を経由し長岡を挟撃する計画である。幕府側(東軍)か、新政府側か態度を決めていない長岡を、西軍はもうすでに敵と見ている。

JR信越線鯨波駅の裏側に小高い丘がある。そして米山方向の集落を挟んだ山との間で砲撃戦が始まったのが、慶応4年閏4月27日朝のことである。
戊辰北越戦争の最初の火蓋が切られたのが鯨波である。戦いの結果は会津・桑名軍がやや有利であったが、同日の夜には山道を進んだ本隊が、小千谷の雪峠と小出島の戦いで西軍勝利が伝わり、東軍は鯨波から一歩撤退することになる。

鯨波戦争を鯨波駅の近くで聞いても知っている人はいない。佐橋神社でも同じであったが、めげずに聞けば必ず知っている人がいるのもわかった。
長州は因果めぐって祖先の地を戦場にしたが、農民出身者が多い奇兵隊中心なので、どこまで気づいていたかはわからない。
また桑名藩陣屋は鵜川べりの小高い丘にある。廃藩置県では柏崎県の県庁が置かれたところだが、ここも探すのに苦労した。

鯨波戦争の戦死者はすくなかったが、その後の戦闘を合わせた戦死者58名を祀る招魂所は、近くに柏崎小学校があるのでわかり易い。中越地震の体験で小千谷の西軍墓碑はほとんど倒れたので、柏崎でも同じ状態であったであろう。
現地を回るとまだ被災地では墓石は倒れたものもあるが、東軍側の桑名藩の地元にもかかわらず、日本の未来をかけて戦った名も無い戊辰戦士達の墓は、全部修復されていて、柏崎の優しい人々の心がわかる。

最後になったが、柏崎だけでなく東京でも、「萩・世田谷幕末維新祭り」を積極的に支援しようとしている柏崎出身の歴史愛好家がいる。柏崎と松蔭神社のある地域との固い絆の一つであると見せてくれた写真は、戦時中に若林小学校などが柏崎に疎開したときのものである。
そうだ私の行った時の「萩・世田谷幕末維新祭り」を盛り上げようと、鼓笛隊で参加しているのは若林小学校であった。
ここに写っている人、知り合いの人、一人でも多くの人が、不思議な縁で繋がる幕末維新祭りの、柏崎観光物産展に寄って欲しいものである。

書き終わったところで管理人の本籍が、世田谷区にあることに気づいた。
さあ、毛利氏家紋の「一文字に三ツ星」のノボリ旗で、柏崎市が「萩・世田谷幕末維新祭り」に登場します。
戦時中に柏崎に疎開した若林小学校の子供達(クリックで拡大)

  毛利の歴史
年 号 西 暦 毛利の歴史
元暦 2年 1185 壇ノ浦合戦で平家滅ぶ
建久 3年 1192 鎌倉幕府成立。幕府創設で大江広元が活躍、相模国毛利庄を得る
承久 3年 1221 承久の乱で功労有り、季光が越後国佐橋、安芸国吉田を得る
宝治 元年 1247 宝治合戦で季光など毛利庄の一族が滅ぶ
文永 7年 1270 経光が佐橋南条地頭職を時親に譲る
元弘 3年 1333 鎌倉幕府崩壊し、南北朝の騒乱期に入る
建武 3年 1336 室町幕府成立。時親が佐橋荘から安芸国吉田庄に入部
明応 6年 1497 弘元の二男として元就が吉田に生まれる。幼名松寿丸
大永 3年 1523 元就が家督相続。この時代に領土の拡大が続く
慶長 5年 1600 輝元、関が原合戦で敗戦、防長二国に移封
慶応 4年 1868 戊辰戦争始まる。長州毛利はふるさとの地の越後に攻め入る
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