会津に告げよ武士の死を(小出島)
中越地震の震源地に近い新潟県の小出町に会津藩士の「輪形月歌碑」と、白虎隊最初の戦死者町野久吉の名が残っている「戦死者姓名碑」がある。 平成の大合併で小出町は魚沼市になったが、会津からみると六十里越を挟んだ西の地にあたり、昔は小出島といって会津藩の領地であった。会津と小出はJR只見線で結ばれているが、2時間に1本位のローカル線である。でも近年は難所六十里越を国道252号線が開通し、会津と越後は時間的に近いものとなった。 会津藩は小千谷陣屋と小出島陣屋を置いて魚沼の一帯を統治していた。善政を敷いたのか地元民から会津への評判はすこぶる良いという。 戊辰戦争が始まる慶応4年(1868)になると、会津藩は越後口の守りを固めることになり、従来の代官に代えて郡奉行を派遣してきた。赴任してきた郡奉行は町野主水である。 圧倒的多数の新政府軍は、三国峠から越後をうかがうと同時に、高田を出立した山道軍は安塚から川西を経由し、ここで一隊は小千谷を目指し、もう一隊が信濃川を渡り、八箇峠、栃原峠を越え小出島に迫った。 町野隊と小千谷に派遣された遊撃隊の井深宅右衛門隊も、急遽小出島に応援に駆けつけ防戦したが、閏4月27日ついに会津藩は小出島から敗走した。この前日の26日には新政府軍は小千谷の真人方面から乱入して芋坂・雪峠の戦いを制し、長岡が目の前の小千谷を占領し本営を置いた。 小出島が落ちた同じ日に、高田から日本海沿いに進んだ新政府の海道軍は、鯨波の戦い(鯨波戦争)で会津藩・桑名藩に苦戦しながらも、桑名藩領地の柏崎を占領し、ここに本営を置いた。 今回は戊辰の史跡を求めて、白虎隊の眠る飯盛山から小出島に旅することにした。 幾人の涙は石ににそそぐとも その名は世々に朽(くち)じとぞ思う (松平容保公の弔歌) |
飯盛山の記念館前の白虎隊士 | 少年隊士慰霊碑 | 松平容保公弔歌の碑 |
只見町の河井継之助記念館 | 医王寺にある河井継之助の墓 | 越後との国境を守った叶津番所 |
会津若松からJR只見線に乗り、只見駅を過ぎると長い田子倉トンネルに入る。いったん田子倉で地上にでるが、ふたたび県境の六十里越トンネルに入る。このトンネルを抜けると新潟県となり、只見線の終着は小出駅である。 昔は只見川沿いに越後への街道が走り、街道は叶津で八十里越と六十里越の峠に分かれた。 負傷した河井継之助が越後から越えてきたのが八十里越であるが、会津藩にとって重要だったのは越後の会津藩領地に通う六十里越である。それぞれ八里と六里の峠であるが、いずれも一里が十里に相当する険しい峠であることからこの名がついた。 小出駅は魚野川と山に挟まれた所にあり、小出島の街は魚野川の対岸にある。雪国特有の雁木通りが整備された美しい町並みである。 この繁華街から北に少し入った所に陣屋通りがある。かっての小出島陣屋の遺構はまったくなく、公園に「陣屋のみち」という看板が建っていた。 これによると小出島の戦いで陣屋は焼失したが、新たなまちづくりを行うにあたり、長い時代の流れを見つめてきた小出島陣屋の歴史を大切にしょうと、陣屋があった所を「陣屋通り」と命名したとある。 この一角に石碑が3つ並んで建っている。中央の大きな碑が「懐旧碑」で、篆額は松平容保の実子で斗南藩主になった容大公で撰文は南摩網紀である。右側にあるのが「戦死者姓名碑」で、三国峠の戦いと小出島の戦いで戦死した会津藩士の14名が刻まれている。左側の比較的新しい碑が「輪形月の歌碑」である。 |
只見の険しい山並み | JR只見線は次々とトンネルへ | 六十里越峠開通記念碑(角栄書) |
六十里越から見る田子倉湖の秋 | 割元庄屋の目黒邸(魚沼市須原) | 魚野川を渡ると終着の小出駅 |
陣屋通り | 並んだ3つの石碑 | 謎めいた輪形月の歌碑 |
「戦死者姓名碑」の上段の右端には町野久吉、下段の3番目に望月武四郎の名前が読める。 白虎隊士町野久吉は郡奉行町野主水の実弟である。弱冠17歳の久吉は兄と三国峠を越えてくる新政府軍に備え、峠を越えた新治村の大般若塚に陣地を構えた。 閏4月24日、新政府軍は三国峠に迫り、会津藩はこれを迎え討つことになる。宝蔵院流槍術の名手と伝わる久吉は、祖先が蒲生氏郷から拝領した槍を振い、新政府軍の真っ只中に突進した。18人を突き伏せたところで、大勢をを立て直した新政府軍の集中砲撃を受け、壮絶な戦死を遂げた。 久吉の墓は戦死した三国街道の永井宿の近くにある。 |
永井宿の近くにある町野久吉の墓 | 会津藩が陣を敷いた大般若坂 |
町野家家宝の長槍には後日談がある。蛤御門の変で兄主水がこの槍で武功を挙げ、三国峠の戦いでも弟が会津藩の一番槍として獅子粉塵の活躍をするが、久吉の死後は新政府軍に押収された。 山県有朋が町野主水に家宝の槍を返す話を出したが、主水は「戦場で奪われたものを畳の上で返してもらうわけにはいかない」とがんとして拒否したという。 閏4月27日には小出島の攻防戦が始まり、200人の会津軍は約700人の圧倒的多数の新政府軍に奮戦するも、小出島は占領され陣屋は炎に包まれた。 多くの死傷者がでて、地元民は負傷者を匿ったが、新政府軍の詮索は厳しくなり、会津藩士は民への冤罪がでることを恐れ、民家をでて自害して果てた。 |
自刃した輪形月の辞世句 | 松代藩蟻川賢之助の返歌 |
筒音に鳴く音やすめしほととぎす 会津に告げよ武士(もののふ)の死を (輪形月の辞世句) (碑の原文) 津々於登耳鳴久ねや春免し本と々幾須 会津尓告希よ毛能々ふの死を 輪形月 「輪形月の歌碑」からは望月武四郎の名前はでてこない。「輪形月」とは満月のことですなわち望月のことである。判読を避けようとしたのか、なぜか歌碑の文字は当て字がほとんどで、わずかに「会津」と「輪形月」しか読めない。 この辞世の句が世に知られたのは、昭和63年の「戊辰120周年記念行事」で歌碑が建てられたことによる。戊辰から120年、望月がもののふの死を告げたかった会津はあまりにも遠かった。 歌碑の裏面に松代藩隊長の蟻川賢之助の返歌が刻まれている。 ー小出島の戦ひにみまかりし敵ながらやさしきもののふの心根を弔ひてー ほととぎす魚野川辺の夏嵐 永久(とわ)に伝へよ波騒(なみざえ)の声 (蟻川賢之助の返歌) |
良寛の弟子貞心尼歌碑(小出公園) | 小千谷の雪峠も墜ちる | 小千谷浦柄神社の会津藩墓地 |
近くの小出公園に良寛を敬愛した貞心尼の歌碑がある。 貞心尼は長岡藩士奥村五兵衛門の娘として生まれ、17歳で小出島の医師関長温に嫁いだ。 6年ほどで訳あって離別、柏崎に移り住むことになるが、小出の想い出を歌集「もしほ草」に残した。 あるしなき 宿ともしらて ふる里の 庭の秋はき 今やさくらん 来て見れば 袖そぬれける ふる里の かきねまはらに さける秋はき (貞心尼) |
もどる |