風雲児・高杉晋作

 長岡城をめぐる朝日山の戦い、信濃川渡河作戦、今町の戦いなど、北越戦争の激戦では必ず奇兵隊の名前がでてくる。身分制度の厳しかった江戸時代に、町人、農民により編成された奇兵隊は、北越の地で暴れまくった。
無敵と恐れられた奇兵隊をつくった風雲児・高杉晋作とはどんな男か。

  高杉晋作の年表
年 号 西 暦 年 齢 高杉晋作のできごと 国内のできごと
天保10年 1839 上級藩士200石高杉小忠太の長男として萩に誕生 .
弘化 6年 1846 萩城下の吉村淳蔵の家塾に久坂玄瑞と通う .
嘉永 6年 1853 14 藩校の明倫館で学ぶ ペリー浦賀に来航
安政 4年 1857 19 久坂玄瑞に誘われ吉田松陰の松下村塾に入門 .
安政 5年 1858 20 幕府の昌平黌に入学。吉田松陰が野山獄に投獄 安政の大獄。日米通商条約
安政 6年 1859 21 藩命で江戸から萩に帰る。師の吉田松陰刑死 .
万延 元年 1860 22 井上家の娘雅子と結婚。明倫館舎長。柳生芯陰流の免許皆伝。江戸を往復 桜田門外の変
文久 元年 1861 23 世子の小姓役。江戸勤務 米国の南北戦争
文久 2年 1862 24 上海の海外視察、各国領事館訪問。江戸で脱藩。同志と英国大使館の焼き討ち 寺田屋の変
文久 3年 1863 25 松陰の遺骨回収し世田谷の松陰神社に埋葬。長州、馬関でアメリカ船を砲撃し攘夷実行。下関戦争で連合艦隊に降伏。奇兵隊発足、総督就任。間もなく総督解任 リンカーン奴隷解放宣言
元治 元年 1864 26 脱藩の罪で野山獄に入牢。禁門の変で久坂ら同志戦死。幽閉を解かれ連合艦隊と停戦交渉。福岡に逃亡。長男梅之進誕生。12月功山寺で決起 池田屋騒動。禁門の変。第一次長州征伐。四国連合艦隊が下関砲撃
慶応 元年 1865 27 高杉家を離れ谷潜蔵に改名。馬関で保守派と戦い勝利。伊藤俊輔と長崎に発つ。二次征伐を聞き長州へ戻る。坂本龍馬と下関で会う 第二次長州征伐発令。咸臨丸米国へ出発
慶応 2年 1866 28 海軍総督に就任。小倉城攻撃。長州藩勝利。結核で吐血 第二次長州征伐。薩長同盟。将軍家持、孝明天皇死去。慶喜将軍就任
慶応 3年 1867 29 4月14日、谷潜蔵源春風号春行死去 明治天皇即位。大政奉還。王政復古。倒幕の密勅出る

高杉晋作 晋作生誕の地(萩) 師・吉田松陰

 上級藩士の長男に生まれた晋作は、14歳で明倫館に入門、19歳の時に萩に戻っていた吉田松陰の松下村塾に学び、久坂玄瑞と弟子の双璧となる。松陰は黒船の来航時に密航を企て、投獄されていたが、仮出所し塾を開いていた。この塾は身分を問わなかったので、農民の出身の伊藤俊輔(博文)や北越で戦う下級武士の山県有朋ら優秀な子弟が集まった。
幕府の外交政策を批判する松陰はふたたび捕らえられ、江戸に送られ安政6年(1895)刑死する。

 24歳の時に師の松陰が果たせなかった外国視察の夢である上海視察が藩命により下る。
翼あらば千里の外も飛びめぐり、よろづの国をみんとぞ思ふ(高杉晋作)
そこで見たものは西洋人に植民地のように蹂躙される中国の姿であった。このままでは日本も中国と同じ運命をたどると、危機感を抱いた晋作は幕府打倒を決意する。藩の上層部は、同志を集め過激な行動に走りそうな晋作に自制を求め、晋作は一時身を引くことになった。

西へ行く 人を慕って東行く わが心をば 神や知るらん(高杉晋作)

 文久3年(1863)5月10日、開国に反対する長州藩は下関で外国船に砲撃した。アメリカ、フランス、オランダ、イギリスの4国連合艦隊は報復を開始、長州藩は近代兵器になすすべがなく降伏した。危機感を抱いた長州藩は、外国事情を知った晋作を呼び戻し、藩主は意見を求めた。
晋作は身分を問わず、本人の能力を重視する「奇兵隊」をつくった。正規の兵でなく、奇襲攻撃を行う兵からこの名がついた。最新式の銃を持ち、西洋式の軍事訓練を開始した。半数以上が農民や町人だったので、上下の身分関係や武士のような偏見がなく、新しい軍事訓練に順応できた。
そして総督に就任したが、奇兵隊とこれをよく思わない武士の対立が始まり、晋作は総督を解任され入牢となる。
 先生を慕うてようやく野山獄(高杉晋作)

【アヘン戦争】
 1840年、イギリスと中国(清国)で起こった戦争。イギリスはインドで栽培したアヘンを中国に密輸し、莫大な利益を上げていた。1839年、中国はイギリス商人のアヘンを焼却、これが原因で両国が戦争になった。中国は大敗し、多額の賠償金を支払い、香港をイギリスに渡した。
その後、フランス、アメリカなどと不平等な条約を結び、半植民地化していった。幕末の日本は、列国の怖さを中国の先例から知っていた。香港が中国に戻ったのは1997年であった。

司馬遼太郎「街道をゆく」より 維新誕生の地 谷潜蔵(号東行)の墓

 池田屋騒動、禁門の変から第一次長州征伐が発令され、外からは再び連合艦隊の襲撃を受けた長州は、入牢中の晋作を連合艦隊の交渉役として乗り切ろうとした。連合艦隊の脅威からは逃れたが、15万の幕府軍に対しては、保守派が倒幕派を押さえ、家老3人の切腹で幕府に降伏した。そこで討幕派の晋作は福岡に逃亡した。

 幕府に降伏した長州藩を見た晋作は、日本の未来と藩の存亡を憂い、元治元年(1864)12月15日、下関の功山寺(こうざんじ)で決起した。翌慶応元年(1865)1月7日、晋作に賛同した3千の兵は長州藩と戦闘を開始、近代装備と訓練された兵の前に保守派は圧倒された。
勝利した晋作は美酒に酔うことなく、イギリス留学を夢見て長崎に発った。

 慶応元年(1865)4月、討幕派の勝利を知った幕府は、第二次長州征伐を発令したが、3千5百の長州軍は約10万の幕府軍を打ち破った。勝利の余韻が残っている中で晋作は結核による吐血で倒れた。

 慶応3年(1867)4月14日、高杉晋作はイギリスへの留学を夢見ながら、息を引き取った。
  面白きこともなき世を面白く(高杉晋作辞世の句)
   住みなすものは心なりけり(野村望東尼の下の句)


 高杉晋作は、河井継之助と似ているように思われる。勤勉な藩士の父親に、長男で気性の激しい跡取り息子。藩の将来を思い過激な行動を取るため、藩からは何度も左遷にあう。
継之助の死後、河井家は断絶するが、高杉家はその前に過激な息子を一族から外している。
晋作は決起におよび「谷潜蔵」と改名し、高杉家とは縁のない他人として死んでいった。妻宛の手紙に、一人息子は自分ではなく、父親のように育てて欲しいと頼んでいる。

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