新選組のふるさと多摩(U)

 多摩はNHKの大河ドラマ「新選組」で、新選組のふるさとは武州の多摩として全国的に有名になった。
東京都に属している三多摩と呼ばれる区域の26市2町1村には、現在約400万人の人々が暮らしている。
江戸時代から半士半農で新しい領主の支配を許さず、江戸にも近く独自の文化を持った多摩は、幕末から近代にかけての歴史に多くの足跡を残してきた。
しかし、ここに住んでいる人でも、明治の中ごろまで三多摩が神奈川県だったことはほとんど知られていない。

 新選組といえば、土方歳三の生誕地の日野や近藤勇の生誕地の調布がよく知られてきた。新選組のふるさと多摩(U)では、その他の地区にもスポットをあて、幕末から明治にかけて日本を引っ張った多摩の歴史を探ってみる。

 多摩の歴史(戦国時代以降)

年 号 西 暦 主な多摩のできごと
天正10年 1582 甲斐の武田氏滅亡。本能寺の変
18年 1590 豊臣秀吉が小田原城包囲。北条氏照の八王子城落城。徳川家康関東に入る
18年 1590 武田家の旧臣大久保長安が家康から八王子の奉行に抜擢される
慶長 4年 1599 武田家、北条家の遺臣を中心に八王子千人同心組織化、大久保長安が差配
5年 1600 関が原の戦いに八王子千人同心出陣。その後も大坂冬の陣、夏の陣に出陣
8年 1603 徳川家康が江戸幕府を開く。多摩の代官は北条の家臣韮山の江川家を容認
18年 1613 大久保長安事件起こる
承応 3年 1654 玉川兄弟が玉川上水開削
寛永 1年 1789 この頃、近藤内蔵助が天然理心流を創始
文政10年 1827 塩野適斎「桑都日記」著す。天保5年「桑都日記続編」
弘化 3年 1846 ペリー浦賀に来航
嘉永 5年 1852 江川太郎左衛門が下田警備に農兵隊を組織
安政 6年 1859 横浜、長崎、箱館が開港
文久 1年 1861 近藤勇が天然理心流宗家4代襲名。府中六社宮(大国魂神社)で襲名披露試合
3年 1863 浪士隊(新選組の前身)上洛。千人同心横浜警備
慶応 1年 1865 第2次長州征伐に出兵
2年 1866 八王子に生糸蚕種改会所ができる
3年 1867 甲府城乗っ取りの薩摩浪士隊が八王子で壊滅、隊長逃亡。薩摩藩邸焼討
明治 1年 1868 鳥羽伏見の戦い。甲陽鎮撫隊が勝沼で敗走。江戸開城
 2年 1869 箱館戦争
4年 1871 廃藩置県。多摩は神奈川県、多摩の東部(東多摩郡)は東京府となる
11年 1878 多摩が三郡(北、南、西)に分割となる
12年 1879 第一回神奈川県会議員選挙と県会開催、議長に野津田(町田市)の石坂昌孝選出
14年 1881 旧仙台藩士千葉卓三郎が「五日市憲法」が起草。明治23年国会開催の詔勅
18年 1885 北村透谷が野津田(町田)で自由民権運動指導者石坂昌孝の娘美那と出会う
21年 1888 「殉節両雄之碑」建つ、篆額松平容保、揮毫松本良順
22年 1889 大日本帝国憲法発布。甲武鉄道、新宿・八王子間が開通
23年 1890 第一回帝国議会召集
26年 1893 三多摩が神奈川県から東京府に移管。移管反対運動激化
昭和 2年 1927 八王子に多摩御稜造営
11年 1936 北多摩郡の東端が世田谷区に編入
43年 1968 「五日市憲法」見つかる
平成 5年 1993 三多摩の東京移管百周年

 千人同心のまち八王子
 八王子は学園都市となり多くの大学が集まっている。立川や吉祥寺の派手さはないが、中心都市を持たない多摩地方の中では歴史の備わった街である。

 八王子の西方にあたる高尾山の近くに千人町の地名が見える。ここは徳川家康の関東入府に伴い、武蔵と甲斐との国境を警備した千人の武士集団が住み着いた町である。千人同心は八王子を中心に住んでいたが、実態は多摩のかなり広い地域に分散していた。
千人同心は江戸幕府創成期には関が原の役、大坂の陣などに参戦、その後は日光東照宮の警備(日光火の番)、蝦夷地の開拓、幕末には横浜警備や長州遠征で活躍した。

 千人同心が住んだ三多摩は、横浜開港により外人が絹を求めたことから海外の文化に直結した地域となり、明治になると思想家、文化人を数多く排出した。外国の影響を強く受けその開明的な思想が逆に災いして、三多摩が神奈川県から東京に強引に移転させられる原因にもなった。

 三多摩の中心である八王子は、中央を甲州街道が通り、東国の入口として極めて重要な地である。戦国時代には八王子城、滝山城、片倉城、高月城などの多くの城があったが、天正18年(1590)に豊臣秀吉の大軍により北条氏康の息子氏照の守る八王子城は落城した。
家康は東国の入口にあたるこの地に武田信玄と北条家の遺臣を配し、直参でありながら平時は農業に従事するという半士半農の集団である八王子千人同心が誕生した。士農工商で武士と農民が明確に分離した時代に、千人同心は特異な存在であった。

 そもそも千人同心とは、旗本待遇の十人の千人同心頭に百人の同心を配し、千人の同心集団で江戸の国境を守ったことに始まる。千人同心の組織化にあたっては、武田信玄の家臣であった大久保長安の功績が大きい。
大久保長安は武田信玄の息女松姫(会津藩始祖保科正之の乳母)を信松院に住まわせ、家康側近の金山の開発や林業の開発で活躍していたが、慶長18年の死後、不正蓄財とキリシタンとの接触の疑惑から大久保長安事件として一族は失脚する。
しかし長安が創った八王子千人同心は、新選組や自由民権運動の形で後世に引き継がれることになる。
大久保長安屋敷跡 松姫が建立した信松院 信松院の門前に立つ松姫さま
落城した八王子城 八王子城主北条氏照の墓 八王子千人同心屋敷跡

 天然理心流を生んだ多摩
 近藤勇、土方歳三、沖田総司など新選組の中心人物は天然理心流の使い手である。天然理心流の開祖は近藤内蔵助で、寛永年間の初め頃に創始されたされている。剣術だけでなく柔術、棒術、気合術などを含む総合武術であり、気合と実戦を重視した流派はまたたく間に千人同心や豪農を中心に多摩に拡がった。

 二代目近藤(坂本)三助、三代目近藤(島崎)周助が継ぎ、四代目が新選組局長近藤(宮川)勇になる。全て養子であることは血統より実力を重んじたことにほかならない。日坂神社の奉納額には島崎勇(近藤勇)、沖田総次郎(沖田総司)、井上源三郎の名前が読み取れる。島崎は勇が養子に入った周助の旧姓である。残念ながら奉納額は公開されていないが、毎年行われている日野新選組まつりなどで公開されることもある。

 天然理心流を田舎剣法というが決してそうではなく、実戦を重視した流儀を学ぶ武士は多かった。
幕末でもペリーと最初に交渉した浦賀奉行の与力中島三郎助は天然理心流の使い手である。三郎助は優れた造船技術を持ち、吉田松陰や桂小五郎に大きな影響を与えた。また五稜郭の戦いでは土方歳三とともに戦い、息子二人と壮絶な最後を遂げている。

 このように士農工商の時代に、武士以外が自由に剣術が学べるだけでも多摩は特異な土地である。
天然理心流を学んだ多摩の人々は、自ら農兵を組織するとともに、彼らの代表として京の新選組に金銭的な支援と声援を送り続けた。
日坂神社の奉納額(日野市) 西行寺の近藤勇(調布市) 高幡不動尊の土方歳三(日野市)
近藤勇、土方歳三らが出稽古に通っ
た小島家、今は資料館(町田市)
高尾山からみた多摩一帯 多摩川を隔て土方歳三の生家近く
にある谷保天満宮(国立市)
天然記念物ケヤキ並木と
魂神社参道(府中市)
近藤勇が宗家襲名の披露試合を
した大國魂神社(六所宮)
むかし武蔵国府が置かれた府中、
分倍河原古戦場の新田義貞像

 桑都(そうと)八王子
 八王子はかっては養蚕と織物の盛んな町であった。江戸時代から近世にかけて鑓水商人と呼ばれた豪商が甲斐や上州の絹や繭を横浜に運んだ。今でもかって豪商が屋敷を構え行き交った道は「絹の道」として残っている。桑都とは織物の町八王子の別名である。

 昌平坂学問所に学んだ千人同心の組頭塩野適斎が文政10年から天保5年にかけて「桑都日記」と「桑都日記続編」を著し幕府に献上した。図解入りで極めて貴重な資料である。

(画像クリックで拡大)
 下の写真に御殿川にかかる「ごてんばし」が見える。明治天皇は頻繁に多摩を行幸し、製糸工場を視察したり、猪狩りや多摩川のあゆ漁などをされて遊ばれた。絹の道近くの御殿山や聖蹟桜ヶ丘はうさぎ狩りを行った所である。
舗装路になった絹の道 まだ昔の面影を残す絹の道 絹の道資料館、旧鑓水商人屋敷跡
「絹の道」の碑 絹の道を見守る石碑 鑓水の養蚕農家(都指定文化財)

 玉川上水
 参勤交代で江戸に住む武士とそれを支える町人の大幅な増加により、飲料水の不足が深刻化してきた。当初は赤坂の溜池や神田上水に頼っていたが、幕府は承応2年(1653)に庄右衛門、清右衛門兄弟に多摩川から上水路の開削を命じた。兄弟は幕府からの資金に加え私財を投げ打って、羽村から江戸までの水路を完成させた。

 のちに玉川の姓を贈られることになる兄弟の素晴らしさは、土木技術の発達していない時代に、延長43kmの大水路を標高差わずか92mという緩やかな傾斜で、それを8ヶ月で作り上げたことである。
この勾配は100mで20cmというまさに驚異的な精度である。羽村の取水口にある玉川兄弟の像は、当時の測量具である間縄(けんなわ)を兄が持ち、弟は間竿(けんざお)を持っている。
あまりにも偉大な業績だったがゆえに、この用水が後年三多摩の運命を変えようとは兄弟は知る由もない。
羽村水門を見守る玉川兄弟 上を歩ける羽村取水堰 水門から下流へ
昔を伝える水門脇の陣屋門 下流の玉川上水(武蔵野市) 玉川上水の遊歩道(武蔵野市)

 三多摩の不思議
 八王子、立川そして吉祥寺や井の頭公園まで神奈川県だったとは信じがたい。東京都の23区の西に位置する三多摩(北多摩、南多摩、西多摩)地域が神奈川県、しかも東京に移管されたのが明治26年(1893)だったことを住んでいる住民でも知る人は少ない。三多摩の不思議である。

 明治4年の廃藩置県により三多摩は神奈川県に編入された。北多摩郡は府中、南多摩郡は八王子そして西多摩郡は青梅に郡役所を置いた。中野、杉並などの東多摩郡はすでに東京に編入されている。
明治16年、東京府は玉川上水とその水源地の確保に動き、北多摩郡と西多摩郡の二郡を神奈川県から東京に移管することを画策した。

 横浜開港後、三多摩は絹を通して横浜と強くつながり、この当時の地図には横浜に来た外人が外国人の遊歩規程により、ビザなしで川崎ー立川ー八王子ー高尾(ほぼ多摩川より南区域)を自由往来ができると載っている。
「トロイ遺跡」で知られるドイツの考古学者アインリヒ・シュリーマンやイギリスの外交官アーネスト・サトウは八王子まで足をのばしたことを記録に残している。

 このように横浜とつながったことで、早くから開明的な自由民権運動が盛んになり、取り締まりに手をやいた当時の神奈川県知事は、東京の申し出である北多摩郡と西多摩郡に加え、南多摩郡の東京移管を働きかけ、神奈川県から自由民権運動を排除しようと謀った。
激しい反対運動があったが、明治26年ついに三多摩は東京府に移管された。東京が玉川上水を欲しがらなければ吉祥寺などは神奈川県、そして神奈川県知事の逆提案がなければ、南多摩郡に属す八王子や町田は神奈川県という不思議な話しである。かって存在した三多摩を含んだ神奈川県地図は実に見事な形をしている。

 豊かな南多摩郡の土地を自ら手放す知事がいたとは信じられないが、この知事は薩摩藩邸焼討事件の直前に江戸での撹乱を図り、さらに12名が甲府城乗っ取りに走ったが、八王子の壷伊勢屋(つぼいせや)で、江川太郎左衛門の命により日野の佐藤彦五郎に阻止された集団の隊長であった上田某だという。(佐藤文明著:未完の「多摩共和国」新選組と民権の郷や日野市広報による)
個人的恨みのために、自ら治めている土地を売ったとは思いたくないが、多摩の東京移管は実に不思議なできごとである。

 昭和43年、西多摩郡五日市町(現あきる野市)の深沢家の土蔵から五日市憲法草案が発見された。旧仙台藩士千葉卓三郎と地元の自由民権家が起草した五日市憲法は、基本的人権を高らかにうたっているところに特徴がある。

 明治維新から10年あまり経過したのに、憲法も国会もなく国民の自由な発言も認められていなかった。しかも国民は租税負担や徴兵の義務は課せられ、愛国のもとに一方的に義務だけが強要され、権利の行使ができないなかで自由民権の運動が展開されていた。全国でも自由民権家を中心に種々の憲法草案が検討された。自由民権運動の高まりを憂慮した薩長閥を中心とした時の政府は、明治14年に天皇の詔勅により、10年後(明治23年)の国会開催を打ち出すことで自由民権運動を封じこんだ。
こうして多摩の誇るべき五日市憲法は、発見されるまで約百年の長い眠りにつくことになる。
薬師池の自由民権の像(町田市) 自由民権資料館(町田市) 北村透谷・美那出会いの地に建つ
自由民権の碑(町田市)
誇り高い五日市憲法碑(あきる野市) 自由民権家の末裔が住む家(町田市) 学園都市くにたち(国立市)

 多摩森林科学園
 農林水産省の試験林で古くは宮内省が管理していた。ここの見どころは日本全国にある各種の桜の試験林である。250種の桜があると言われているが、2月下旬から5月にかけて咲く桜は見事である。近年になってから試験林が公開されたこともあり、あまり知れ渡ってなく隠れた桜の名所である。

 三多摩から相模にかけて見事なヒノキが多い。ほとんどが韮山代官で、千人同心にも深く関わる江川太郎左衛門の名前がでてくる。この園内にも太郎左衛門のヒノキが残っている。
太郎左衛門は反射炉や高島流砲術の大家としても知られており、全国に多くの門人を持った。薩摩の黒田清隆と、河井継之助の遺族を守り札幌農学校長になった森源三は、この太郎左衛門の塾でつながっている。
杜の科学館内には2006年に、枯損により伐採された江川ヒノキが展示されている。
多摩森林科学園はJR高尾駅から徒歩10分であり、見学をおすすめしたい。
多摩森林科学園入口 全国の種々の桜が見事 その一つをアップ
秋の多摩森林科学園 森の科学館 樹齢155年の江川ヒノキ
江川ヒノキ説明 江川ヒノキ年輪 現存する江川ヒノキの雄姿
江川ヒノキ
推定年齢;約155年生
森林技術総合研修所敷地内にあったもの
2005年10月枯損 2006年3月伐採

 この地は、江戸時代は幕府の直轄地で、天保6年(1835)〜安政2年(1856)の間、伊豆代官 江川太郎左右衛門英龍〔享和元年(1801)生・安政2年(1856)没〕が管理していた。
 行政官でかつ蘭学者、文化人、開明思想家、革新技術者であった氏は、嘉永3年(1850)韮山反射炉を築造、1853年からお台場の砲台6基を築造(2基は未完)したことで知られており、また、1842年4月12日に韮山の自宅庭でパンを焼いたとされており、4月12日は「パンの記念日」として制定されている。
 代官時代、領内に植えられたスギ・ヒノキが現在でも「江川スギ」「江川ヒノキ」の名で残っている。
江川ヒノキの説明文

 武蔵野稜
 多摩森林科学園に隣接して、昭和天皇、大正天皇そして皇后の御稜がある。正確には多摩稜(大正天皇)、多摩東稜(貞明皇后)、武蔵野稜(昭和天皇)、武蔵野東稜(香淳皇后)である。
甲州街道の追分交差点からJR高尾駅にかけて、昭和2年の多摩御稜の造営に伴っていちょうの樹が植えられた。このいちょう並木を右折し、東浅川橋を渡りけやき並木の参道を進むと、玉石と北山杉に導かれて御稜に到着する。
開かれた皇室を目指すのか、各所に警察官が警備しているが比較的自由に荘厳な御稜に入れるのがむしろ不思議な感じがする。
参道にかかる東浅川橋 武蔵野稜の入口 多摩稜と武蔵野稜の分岐点

 高尾山
 山中に真言宗智山派の大本山高尾山薬王院があり、関東屈指の霊山として多くの信者やハイキング客で四季を通じて賑わっている。
高尾山頂や薬王院の途中まではケーブルカーが通り、山歩きの初心者で山頂に近づける。付近一帯は明治の森国定公園に指定されている。

 幕末期に外交官アーネスト・サトウは、自由往来できる多摩を散策し高尾山で道に迷い、関所で役人といざこざを起こしたという記録が残っている。
紅葉の高尾山 高尾山薬王院 高尾山頂上付近

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