司馬遼太郎「峠」の世界(週刊朝日連載

 週刊朝日に司馬遼太郎「河井継之助の見果てぬ夢」が連載されている。
週刊司馬遼太郎として「燃えよ剣」から連載を始めたもので、「峠」は38週目である。各作品あたり5〜6回の掲載が続き、
「峠」の第1回(11月17日号)は「信濃川河畔の文学碑」で、小千谷の越の大橋のたもとにある司馬遼太郎「文学碑」の建立のいきさつ、「私と司馬さん」のコーナーは作家の半藤一利さんが登場する。
第2回(11月24日号)は「地震と小千谷談判」で、中越地震に遭った慈眼寺の復興が中心となっている。そして「私と司馬さん」は女優の星野知子さんである。

第3回は(12月1日号)は「地球を考える人」で、継之助の姉「千代」の子孫である根岸千代子さんである。

第4回は(12月8日号)は「豪すぎた弟子」で、継之助の生涯の師である山田方谷のふるさと備中の高梁市を訪ねる。

第5回は(12月15日号)は「八十里越」で、継之助が亡くなった福島県只見町である。この異郷の地では継之助の負の部分がないので、地元の人に愛され続けている。

最終回の第6回は(12月22日号)は「長岡人の矛盾」で、戦いの河井継之助、「米百俵」で復興の小林虎三郎、そして二人が信頼を寄せた三島億二郎を通して長岡人の矛盾に迫る。
「私と司馬さん」には森民夫長岡市長が登場し、藩制改革で継之助の偉大さは再認識するが、「上を削って下に厚くする」など私にはとてもできないと語る。
11月17日号 11月24日号
第1回のイントロは、
 司馬さんが『峠』を書き上げたのは1968年。
 『台湾紀行』で李登輝総統と対談したのは1994年。
 この両作品を結びつける触媒となった人が、新潟県小千谷市にいた。

第2回は、
 新潟県中越地震から2年が過ぎた。
 『峠』の舞台となった長岡市、小千谷市には、深い傷跡が残っている。
 「小千谷談判」が行われた慈眼寺も壊滅的な被害からようやく立ち直った。

12月1日号 12月8日号
第3回は、
 河井継之助を先祖に持つ根岸千代子さんに会った。
 千代子さんはアメリカ在住だが、帰国すると、
 継之助らの思いを感じようとして、タイムスリップの旅に出かける。
 道に迷った先でも不思議な出会いがあった。
(週刊朝日から)

第4回は、
 河井継之助はめったに人を尊敬することはなかったという。
 しかし、備中松山藩の家老、山田方谷だけは深く尊敬した。
 方谷のふるさと、高梁市を歩いた。

12月15日号 12月22日号
第5回は、
 同じ司馬作品のヒーローでも、坂本龍馬と河井継之助では、ファン気質が違うようだ。
 今回は福島県只見町を歩いた。
 終焉の地で河井継之助は手厚くされていた。

第6回は、
 河井継之助が死んでなお、長岡藩は戦い続けた。
 その志は形を変え、遠く北海道にも痕跡を見ることができる。
 矛盾の人、継之助のふしぎな魅力をあらためて考えた。

 各作品の第1回目は写真や絵で飾られ、司馬遼太郎「峠」“英雄児の宿命”は、「森立峠」、「八丁沖」、「榎峠」、「只見町塩沢」を7ページに渡り掲載している。
11月15日には、いままで掲載したものをまとめ、別冊「週刊司馬遼太郎」が発売された。内容は「燃えよ剣」の世界、「竜馬がゆく」の世界、「国盗り物語」の世界、「功名が辻」の世界である。
別冊は、写真や安野光雄さんの絵がカラーページになっている。

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