開戦決意の地
「わしの首と、三万両の軍資金をもっておぬしがもう一度小千谷にゆくことだ」 (司馬遼太郎「峠」より) 慶応4年5月3日、長岡藩軍事総督河井継之助は、前島村を守衛していた親友川島億次郎(のちの三島億二郎)を訪ねた。 前日、小千谷の慈眼寺で継之助は新政府軍の岩村精一郎と会談したが、和平の願いも虚しく決裂してしまった。継之助は藩内で人望のある億次郎を訪ね、最後の相談を持ちかけた。 非戦派の億次郎は、命をかけて藩を救おうとする継之助の悲壮な決意の前に悩んだ。しかし、降伏の道はあっても、友藩の会津攻めの先鋒になることは、継之助も億次郎も望んでいなかった。 「わかった」と、川島は顔をあげた。 「すべてわかった。今は是非もない。わしは足下と生死をともにしょう」 川島は、継之助に協力することを誓った。継之助は謝し、あぜから腰をあげた。この瞬間からかれの決戦への行動がはじまったといっていいだろう。 すぐ、川島と摂田屋の本営にゆき、諸隊長をあつめていままでの交渉経過を話し、「これ以上は一藩をあげて奸族をふせぐよりほかにない」と、開戦の決意をのべ、さらに全藩に布告すべく長岡城にむかった。 (司馬遼太郎「峠」より) 継之助と億二郎は若いころ、一緒に東北旅行をするなど親しい間柄であったが、途中からは対立することも多かった。前島神社の「開戦決意の地」は、ふたたび二人を引き戻した。継之助は長岡城の攻防戦で、御山の桜のように華々しく散ったが、億二郎にとってこの地は、長岡の復興にかける長い道のりのスタートの地かも知れない。 |
開戦決意の前島神社 (長岡市前島) |
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