男爵になった岩村精一郎

 中越地震から約半年、今年も5月2日がやってきた。137年前、慈眼寺で長岡藩河井総督と新政府軍岩村軍監の会談が行われた。

 河井継之助と会談した軍監岩村精一郎の北越での評判は当然良くない。継之助と十分な交渉ができなかっただけでなく、捕縛せず虎を野に放ってしまった。
緊急事態を察した山県狂介が小千谷に駈け付けた時には、昨日まで沈黙していた同盟軍がすでに藩境に近い重要拠点の榎峠を攻撃していた。
これに気付かず、土地の娘に給仕をさせ食事をしていた精一郎の膳を狂介は蹴り上げた。

 新政府の山道軍軍監として、破竹の勢いで進軍してきた精一郎には、今まで諸藩の無能な門閥家老だけしか会ったことがなかった。越後に入ってからも、小出島、芋坂そして雪峠で会津軍を蹴散らし、いとも簡単に小千谷を占領した。

 土佐の宿毛の出身で、土佐の先輩である海援隊の坂本龍馬に憧れ、中岡慎太郎が率いる陸援隊に入った。しかし精一郎が入隊するころには、龍馬も慎太郎もすでに暗殺されていた。
幕末の人材の乏しい時期なので、実戦経験もないのに突然東山道軍の軍監に抜擢されたが、24歳の若者には継之助との談判は荷が重かったのだろう。

 後年、男爵にまで出世した精一郎(のちの高俊)は、継之助の人物を知っていれば、慈眼寺での談判のやり方は違ったと悔やんだ。慈眼寺の肖像画ではなかなかの男前で、どちらが悪役か見間違ってしまう。

 石川県知事の時代には長岡藩士とも接点のあった精一郎のその後を探る。

河井継之助 ここで二人は会談した 岩村精一郎(高俊)

経 歴 弘化2年(1845)岩村英俊の三男として土佐の宿毛に生まれる。兄岩村通俊、林有造と宿毛の三兄弟として名高い。 通俊は県令、初代北海道長官、貴族院議員を歴任し男爵となる。二男林有造も衆議院議員で板垣退助とともにに活躍し、大臣を務める。
慶応 3年(1867)京都で陸援隊に入隊。陸援隊は中岡慎太郎が結成した倒幕浪士隊で、坂本龍馬の海援隊に3ヶ月遅れて結成された。鳥羽伏見の戦いの後に解散し、隊士はそのまま新政府軍に加わった者が多い。
明治 元年(1868)東山道軍軍監となり北越、東北を転戦。慈眼寺で河井継之助と会談
明治 7年(1874)佐賀県権令として江藤新平の佐賀の乱鎮圧
明治11年(1878)愛媛県権令
明治19年(1886)石川県知事
明治23年(1890)愛知県知事
明治25年(1892)貴族院議員
明治28年(1895)福岡県知事
明治29年(1896)維新の功労とその後の活躍が評価され男爵となる
明治30年(1897)広島県知事
明治39年(1906)死亡(62歳)
自 伝
(要旨)
5月2日長岡藩の老臣河井継之助来たりて面会を請う。寺にて会見す。
河井が嘆願書差し出したが受け取らず。長岡は朝敵なり、他日兵馬の間に相見んと座を蹴った。
河井失望し、夜を徹し面会を請うも許さず。河井は遂に長岡へ帰った。
会津にも
  原因が
慈眼寺での小千谷会談の決裂が、精一郎に原因があるように言われているが、すでに越後で新政府軍との間で戦闘状態にあった会津藩の暗躍がある。

中立の立場を取る長岡藩を奥羽列藩同盟に引き込むために、会津藩指揮官の一之瀬要人と佐川官兵衛が、会談の直前に長岡と小千谷の中間の片貝で新政府軍を攻撃した。

そして長岡藩の五段梯子の旗印を現場に放置した。新政府軍は長岡藩の中立を到底信ずることができなかったと思われる。
 渡辺  
  譲三郎
明治20年(1887)、石川県知事の岩村高俊は、新潟県勧農場の場長の渡辺譲三郎を石川県の群立模範農場長に招いた。招請理由は譲三郎が明治15年まで6年間、石川県で農業指導を行い、その評価が高かったことによる。

譲三郎の妻たみは佐野与惣左衛門の娘で、与惣左衛門の妻は継之助の姉ふさである。譲三郎の実父は、河井家の遺族を養育している森源三の兄一馬で、譲三郎は長町の河井家の向かい側の渡辺孫右衛門の養子になった。
譲三郎は明治28年までの8年間、石川県で農業を指導し、ここでも高く評価された。
明治26年(1893)には、継之助の股肱三間正弘(市之進)が、高俊と譲三郎を追い駆けるように石川県知事になったのも、不思議な巡り合せである。
三間市之進とは、国内戦争を憂えた建白書を朝廷に提出したとき、副使として継之助に同行し、また戦争後には、戦死した継之助、山本帯刀に次ぐナンバースリーの責任を被り死を覚悟したその人である。

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