新発田藩の内応と津川口陥落
戊辰北越戦争で越後方面の同盟軍は、ある時期まで新政府軍に善戦していた。しかし慶応4年(1868)7月25日の新発田藩の新政府軍への内応により、同盟軍が補給基地として頼みとしていた新潟港が封鎖され、このあと同盟軍は坂道を転げ落ちるように敗戦へ向ってしまった。 越後では高田藩(榊原家)15万石につぐ大藩である新発田藩(溝口家)10万石の奥羽越列藩同盟からの離脱は、北越会津戦争で衝撃的なできごとであった。 いまでも新発田藩の裏切さえなければと考える人は多い。 |
慶応4年 鶴ヶ城落城までの主なできごと | |
5月19日 | 新政府軍の増水した信濃川を渡る奇襲で長岡城落城。 |
7月24日 | 夜半、八丁沖渡河作戦を開始し同盟軍は長岡城に迫る。 |
25日 | 未明に八丁沖を渡り長岡城を奪回。新政府軍撤退。継之助銃撃される。 |
. | 同日、新発田藩が新政府軍に内応、新潟の太夫浜に新政府軍を上陸させる。 |
26日 | 新政府軍は新発田城から新潟に進軍。 |
27日 | 会津藩の水原代官所が陥落。 |
29日 | 新潟の全域を制圧。同盟軍総督の米沢藩色部長門戦死。二本松の戦い。 |
. | 同日、長岡城が再落城。 |
8月 1日 | 安田の赤坂山での戦闘。会津軍は小松に退く。 |
5日 | 河井継之助は担架に乗せられ八十里越から只見に到着。 |
11日 | 新政府軍は宝珠山の会津陣地を落とし小松を占領。会津軍は津川に後退。 |
15日 | 新政府軍は津川に到着、阿賀野川を挟み砲撃戦となる。 |
16日 | 河井継之助会津塩沢の医師矢沢宗益宅で没す。 |
19日 | 榎本艦隊が品川沖から北に向う。会津坂下で長岡藩本陣の諸隊を再編成。 |
21日 | 鶴ヶ城の北方の母成峠が新政府軍に破られる。 |
22日 | 新政府軍は十六橋から会津城下に迫る。白虎隊の護衛で藩主滝沢本陣へ。 |
23日 | 白虎隊は戸ノ口原の戦いで敗走、洞門を通り飯盛山で自刃。新政府軍鶴ヶ城を包囲。 |
26日 | 山川大蔵は日光口から飯寺に到着。彼岸獅子を先頭に鶴ヶ城へ入城。 |
27日 | 津川口からの退却命令により会津軍撤退。 |
9月 8日 | この日明治に改元。飯寺で長岡藩大隊長山本帯刀等長岡藩士が濃霧の中で捕わる。 |
19日 | 越後の長州兵が津川口から会津城下に入る。 |
22日 | 会津藩降伏。 |
25日 | 長岡藩降伏。 |
津川に残る狐の嫁入伝説 | 野口雨情の歌碑 | 子爵松平保男書 麒麟山城址碑 |
麒麟山頂上から | 阿賀野川の雄大な流れ |
会津に抜ける津川口は、左右から迫る山並みいっぱいに阿賀野川が流れ、六十里越、八十里越と同じように、厳しい街道である。会津藩は越後の魚沼とともに阿賀野川の流域に飛地を持ち、津川、水原、酒屋などの陣屋でその領地を統治した。 また津川口は会津藩の唯一の海への出口であり、その重要性は極めて高い。この街道は幕末には兵器や弾薬の補給路となり、会津藩にとっては新発田藩の裏切は致命傷になった。 新潟港を手中にした新政府の物量に優る猛攻を必死に堪えたが、母成峠から十六橋を落とした新政府軍に鶴ヶ城を包囲するに至り、会津兵の津川口から退却命令が下った。 風光明媚な場所で、阿賀野川を見下ろす麒麟山の頂上には、松平容保の実子で秩父宮勢津子妃殿下の養父である松平保男書による麒麟山城址碑が建っている。 八十里越から会津に入った長岡軍は、大隊長の山本帯刀自らが千本木、倉沢、雨宮の3小隊を率いて八十里越を死守するために鞍掛峠に留まった。山本隊をのぞく長岡諸隊は8月19日に会津坂下に集結し、5小隊が涙橋に出撃し、2小隊が津川口の会津藩守備隊の応援に向った。 津川城山 白きつね 子供がなくから 化けてみな (雨情) |
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