「米百俵」執筆の地(三鷹市)


 山本有三は昭和11年から21年まで、三鷹市の玉川上水沿いに住んでいた。武蔵野の面影を残すこの地で、有三の代表作である小説「路傍の石」、「はにかみやのクララ」、「ストウ婦人」や戯曲「米百俵」が生まれた。
終戦とともに住んでいた建物は進駐軍に接収され、転居することになる。

 昭和31年に建物と土地は東京都に寄贈され、昭和60年に三鷹市に移管された。その後三鷹市は有三の業績を顕彰し、住んでいた建物を「山本有三記念館」として平成8年に一般に公開した。
 大正15年築の洋風建築建物は市の指定文化財指定を受け、有三自身も三鷹市の名誉市民に推されている。
 JR中央線三鷹駅からを玉川上水沿いの「風の散歩道」を約10分程歩くと、右側に見えてくる洋風の建物が「山本有三記念館」である。
記念館の入口の前に大きな石があるが、有三が昭和12年に中野で見つけて、邸内に運び込んだものであるが、名作「路傍の石」に因み、やがて“路傍の石”と呼ばれるようになった。

 門を入るとすぐ右に顕彰碑があって、碑には有三の肖像と友人が贈った「心に太陽を持て」の文字がはめこまれている。
邸内に入ると、1階の展示室は旧応接室であり、3箇所の暖炉を配置した洋風の造りになっている。
“路傍の石”
(クリックで拡大)
 次に洒落た赤絨毯の階段を上ると和室と洋室の執筆室がある。有三が生前に愛用した遺品も納められており、太平洋戦争が激しくなった昭和18年に、ここで“米百俵”が誕生したと思うと感無量である。
“路傍の石”と後方は記念館 記念館入口 顕彰碑
1階の応接間 暖炉 洒落た階段
2階の和室は執筆室 名作の中に“米百俵” 建物南側

 記念館の前には玉川上水が流れ、川を隔てて武蔵野市の閑静な住宅街が広がっている。この記念館の少し三鷹駅寄りの「風の散歩道」に石が1個ひっそりと置かれ、看板に青森県金木町産の「玉鹿石(ぎょっかせき)」のプレートがあるが詳しい説明は一切ない。
不思議に思い記念館の管理人に質問すると、ここが太宰治が愛人と入水した場所であると丁寧に答えてくれた。終戦直後に起こった悲劇の場所は、今はふるさとから運ばれた一つの石が見守るだけである。

 「風の散歩道」をさらに下流に進むと、井の頭恩賜公園に突き当たる。井の頭の名は三代将軍徳川家光に命名されたと伝わるが、江戸時代は神田上水の水源として江戸住民の重要な池であった。
「路傍の石」の向こうは玉川上水 青森県金石町産の玉鹿石 ここが太宰治の入水地
入水地付近の玉川上水 少し進むと井の頭公園 武蔵野の面影が残る園内
園内の玉川上水はちょろちょろ 井の頭池と弁財天 園内の噴水

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