河井継之助を支えた男たち

 河井継之助の藩政改革を支える男がいた。 三島億二郎、村松忠右衛門そして山本帯刀などであろう。それぞれの役割は違ったが、彼等なくして継之助の改革は進まなかった。

 山本帯刀は会津で無念の死を遂げたが、村松忠治右衛門は困難な戦後処理を、三島億二郎は廃墟の長岡の復興に立ち上がる。
継之助の陰に隠れ、全国的には知られてないが、彼らは長岡が最も誇れる人物である。
三島億二郎

(川島億次郎)
 文政8年(1825)長岡藩士伊丹市左衛門の二男として生まれる。 継之助より2歳年上である。
20歳でわずか37石の川島家の養子となる。佐久間象山に学び、吉田松陰とも交流があり、黒船の来航では調査を命ぜられている。蘭学に秀でており藩校宗徳館の三進といわれた秀才の花輪馨之進、三間市之進、渡辺進は川島塾の門下生である。また継之助とも親しく、若いころ奥州各地を遊歴している。

 継之助と違って性格は温厚かつ沈着であり、華々しく表面にはでることはなかった。それゆえに継之助に信頼される。 慈眼寺の会談が決裂の後、継之助は億二郎に真っ先に開戦の止むなきを伝えた。
継之助は自らの首と3万両で戦いを避けようとしたが、非戦派だった億二郎が生死を共にすることを誓い、長く苦しい戦いに突入する。

 億二郎が力を発揮したのは、戊辰戦争後の長岡の復興である。下級藩士の出でありながら、藩主や藩士から人望が高く大参事に抜擢された。そして壊滅的な打撃をこうむった藩士や領民のための産業振興、教育環境の整備、病院や銀行の設立さらには北海道の開拓と移民など、億二郎の果たした業績は数え切れない。

 米百俵で学校が設立されたというが、百俵の代金では学校は建てらず、本や教材費でほとんどなくなる。億二郎は苦しい財政の中から、 三千両の大金を学校建設資金として最優先に割り当てた。
明治25年(1892)68歳の人生を閉じるが、後半生は長岡の基礎造りのために、懸命に捧げた人生である。
継之助や小林虎三郎を凌ぐ逸材であり、長岡藩士で唯一の銅像が、信濃川のほとりで今も長岡を見続けている。
村松
忠治右衛門
 文政元年(1818)長岡藩士三間利兵衛の三男として生まれる。 継之助より9歳年上であるが、親同士がじっこんで、近所だったこともあり子供のころから仲が良かった。文武に優れ24歳で村松家の養子になる。
藩校崇徳館の教授の実績が高く評価され、藩主牧野忠雅より郡奉行に抜擢された。(余談ではあるが忠雅は老中を勤め、日の丸を日本国旗とした開明派の名君である)郡奉行の忠治右衛門の実直な人柄と、賄賂を受け取らない潔癖さは領民から信頼された。

 藩主が京都所司代や老中などの幕府の重職に就いたため出費がかさみ、藩の財政は逼迫を極めていた。ここで藩主は有能な忠治右衛門を勘定頭に取り立てた。 忠治右衛門は財政を改革し大きな成果をあげたが、いかんせん一人の力の限界で、やがて辞任に追い込まれる。

 忠雅の急死により藩主を継いだ忠恭は、備中松山の山田方谷の下で藩政改革の教えを受けた継之助を抜擢する。 継之助は忠恭に対し、莫大な出費のある京都守護職や老中を返上させた。忠治右衛門は郡奉行になった継之助を助け、改革への二人三脚が始まる。 忠治右衛門が一人で、悪戦苦闘しながら進めてきた改革に、継之助の新しい力が加わったのである。

 御年寄格に昇進した継之助は、行政と財政の責任者に無二の同志 忠治右衛門を配した。継之助の先見性と忠治右衛門の実務能力がかみ合い、極度に悪化していた藩の財政は、見違えるほどに立ち直った。剰余金は十万両にもなり、 世界で最新の兵器を手に入れることができた。
忠治右衛門が考え、継之助が実行した改革は見事というしかない。長岡城の落城後、 会津、仙台、庄内を流浪する藩士と家族の近くに、コモを被った荷駄があった。その中には長岡藩の豊かな軍資金が積まれていたという。

 戦争責任を取らされ、家名断絶となった継之助の家族の扶養を雪堂(忠恭の隠居名)と取り計らい、大阪商人との借財を解決した。 雪堂から芦野寿の名前を頂戴し、栄凉寺に眠る継之助の墓に別れを告げ長岡を後にした。
明治26年(1893)東京下谷で75年の波乱の生涯をひっそりと閉じた。
 けふよりは心にかかる雲もなし真如の月をひとりながめん(芦野寿)
山本 帯刀  長岡藩が誇る名門山本家の、将来を宿望された青年家老である。 山本家は甲斐の武田信玄の下で、軍師として活躍した山本勘助の弟を始祖とする一族である。

 継之助の改革の中で、 最も困難が予想された禄高均衡化に率先して賛同し、他の重役を説いて廻った。帯刀の場合は千三百石が四百石に減額となるが、門閥の既得権をさらりと捨てている。
継之助の負傷後は大隊長として殿軍(しんがり)を努め、20日間に渡り八十里越の鞍掛峠を死守し、多くの藩士とその家族の命を守り、新政府軍の会津への侵入を阻んだ。
会津城下でも果敢に戦ったが、飯寺村で濃霧の中で捕まった。敵将はその人物を惜しみ降伏を勧めたが、「主君より戦いは命ぜられるも、 まだ降伏は命ぜられず」と拒み斬首となる。
継之助を敬慕し義に準じた青年家老は、この時まだ24歳で少年の面影を残していたという。

 山本家は戦争首謀者ということで、河井家とともに家名断絶となり、明治16年に再興が許された。
この山本家を継いだのが、高野家から養子となった山本五十六である。
昭和10年ロンドン軍縮会議に赴くとき、「私は河井継之助が小千谷談判に赴かれ、天下の和平を談笑の間に決せられんとした、 あの精神をもって今回の使命に従う決心だ」と述べた。
五十六も南海の空に散る。山本家は駿河の今川に仕えて以来、まさに武門を誇る一門である。
長岡復興の恩人
三島億二郎像
(長岡・千秋が原)
改革の火種は
村松忠治右衛門
(恒文社)
会津で散った若き
家老山本帯刀
左:大隊長山本帯刀
右:総督河井継之助
(長岡・悠久山)
継之助を敬慕した
山本五十六元帥
(長岡・阪之上)
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