会談決裂、激突!榎峠
司馬遼太郎『峠』のタイトル名の一つに挙げられている榎峠。長岡と小千谷の藩境近くに位置する峠で、慈眼寺の会談が決裂した直後、凄惨な北越戦争の火蓋が切られた場所である。 峠の西側は直接信濃川に落ち込み、対岸の『峠』文学碑から見るとこの場所が戦略的な重要拠点であることがわかる。 開戦を決意した長岡軍は、会津藩、桑名藩などの同盟軍と連携して、一旦は明け渡していた榎峠の奪取に動いた。 榎峠を登る同盟軍に対し、信濃川ごしに対岸の三仏生から新政府軍の大砲が火を噴いた。 (写真左側が長岡領だった妙見、中央の中越地震で崩れた所が榎峠、右の集落が榎峠と朝日山に挟まれた浦柄である。信濃川をへだてた手前が三仏生。右上には国道291線が走り、その先は山古志に通じている。手前には埋まった県道(旧国道17号線)とJR上越線も見える。新幹線は写真の上端を走り、左方向の妙見トンネルを抜けた所で脱線した) 同盟軍は榎峠から浦柄に雪崩れ込み、さらに右方向にある朝日山を一気に占領した。この一帯は戊辰戦争の最大の戦いとなった北越戦争の古戦場である。 |
崩落した榎峠 2005年10月24日撮影
(画像「提供:新潟県」、無断使用禁止)
慶応4年 長岡藩の主なできごと | ||
12月22日 | 前年(慶応3年)長岡藩は上京し、朝廷に幕府存続の建白書を提出。 | |
1月 3日 | 鳥羽・伏見の戦い始まる。長岡藩は大阪で玉津橋を警備。 | |
3月 3日 | 江戸藩邸を整理し、ガトリング砲などの兵器を舟に積んで江戸を出航。 | |
16日 | 新政府は高田で長岡藩に対し、金3万両と会津攻めの先導を命ず。 | |
閏4月26日 | 摂田屋の光福寺に本陣を置く。継之助軍事総督に就任。 | |
27日 | 新政府の山道軍が雪峠で会津軍を破り、小千谷に本営を置く。 | |
5月 2日 | 和平をかけた慈眼寺の会談決裂。 | 本陣の光福寺 |
3日 | 三島億二郎に会い継之助は開戦を決意。光福寺の本陣で諸隊長に演説。 | |
10日 | 榎峠で最初の戦い。山県狂介が柏崎から小千谷に到着。 | |
11日 | 榎峠から浦柄を通り一気に戦略拠点の朝日山を奪う。 | |
13日 | 奇兵隊中心の新政府軍が朝日山に反撃するも敗退。副参謀時山直八戦死。 | |
19日 | 新政府軍濁流の信濃川を渡って奇襲し長岡城落城。長岡軍は栃尾に撤退。 | |
6月 2日 | 長岡軍反撃開始。今町を奪回。 | |
7月24日 | 夜半、八丁沖渡河作戦を開始し長岡城に迫る。 | 榎峠古戦場 |
25日 | 未明に八丁沖を渡り長岡城を奪回。新政府軍撤退。継之助銃撃される。 | |
29日 | 新政府軍猛反撃。長岡城再落城。 | |
8月 5日 | 担架に乗せられた継之助は八十里越から只見に到着。 | |
16日 | 会津塩沢の医師矢沢宗益宅で没す。享年42歳。 | |
9月 8日 | 濃霧の中で山本帯刀捕らわれ、降伏を拒否し斬首される。 | |
22日 | 会津藩降伏。 | |
25日 | 闘い続けた長岡藩もついに降伏。藩士と家族の放浪はなお続く。 | 朝日山古戦場 |
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