白虎隊士から東大総長へ(山川健次郎)

 東京帝国大学総長になった白虎隊士がいる。会津若松城の籠城戦を経験し、会津藩だけでなく敵方の薩摩および長州の藩士の期待を一身に集め、朝敵(新政府軍)から異例の出世を遂げた男の名は山川健次郎である。

 健次郎はペリーが黒船で来航した翌年の嘉永7年(1854)に生まれた。山川家は代々300石の中級藩士の家柄であったが、祖父の代には家老職の家格となった。幼くして病で父を亡くした。兄は山川大蔵(後に浩)、妹は後に鹿鳴館の華と云われた山川捨松である。
大蔵は新政府軍が城を包囲する中を彼岸獅子の楽隊を先頭に入場し、籠城戦では家老として総指揮をとった。また明治3年の会津藩のお家再興では、筆頭家老にあたる大参事となり斗南藩を文字通り牽引した。
「山川健次郎伝」
星亮一
「京都守護職始末」
山川浩
鶴ヶ城の天守閣
 鳥羽伏見の戦いで惨敗した会津藩は、江戸に戻るや急いで洋式の軍隊に改めた。これまでの会津藩は青年から老人まで同じ部隊に属しており、体力にばらつきがあり統一行動を取れなかった。そこで年齢別に部隊を編成し直した。

 15歳から18歳までの白虎隊、18歳から35歳の精鋭の朱雀隊、36歳から49歳の青龍隊、50歳以上の玄武隊の4部隊に編成した。さらに階級によって士中隊、寄合隊、足軽隊に区分した。各隊の任務は朱雀隊が実戦部隊、青龍隊が藩境の守備、玄武隊と白虎隊は予備隊とした。飯盛山で自刃して知られている白虎隊士は、白虎士中二番隊42名の生き残った19名のことである。
また藩内から20歳から40歳の農兵3千人を集め、正規軍を合わせると総勢約7千人の部隊を組織した。河井継之助の仲介もあって、スネル兄弟から洋式銃を大量に入手し、洋式調練を急いだ。

ところが訓練の段階で、15歳の少年に鉄砲はあまりにも重過ぎて、健次郎少年を含む15歳の年少組を訓練から外した。

 慶応4年8月22日、新政府により国境の母成峠が破られ、白虎隊の護衛のもとに藩主松平容保は滝沢峠に出陣した。健次郎は滝沢口まで白虎隊について行ったが、ここで年少組は待機となる。運命のいたずらか、これが健次郎が見た白虎士中二番隊の最後の姿であった。健次郎は城に戻り籠城戦に加わったが、雨あられとふる弾丸の中で、毎日この世の地獄を見ていた。
9月22日朝、ついに城に白旗があがった。
出陣した滝沢本陣 奥平謙輔の育った萩の城下町
 開城後、猪苗代に謹慎していた健次郎に対し、重臣が相談した結果越後へ脱走の藩命がでた。長州藩士奥平謙輔と会津藩秋月悌次郎との密約により、会津の将来を託する人材として健次郎に白羽の矢が当ったのである。
危険を冒して先導してくれた僧に助けられ、健次郎は新潟で奥平に会った。奥平に随行し一時佐渡や新発田に滞在したが、明治2年5月に東京の長州藩の屋敷に入り奥平の書生になった。

 明治4年、北海道開拓使で技術者養成のため、何人かの書生をアメリカに留学させることになり、その一員に選ばれた。留学生を選定するにあたり、旧幕府側に理解を示す開拓使の薩摩の黒田清隆がいたことが幸いした。北海道は寒いということで、薩長からだけの選抜を退けた。健次郎は長州の奥平謙輔に助けられ、今度は薩摩の黒田清隆に救われた。 
よく明治4年正月、黒田に引率されて健次郎はアメリカに向った。

 ここで難関のエール大学に合格する。健次郎はアメリカとの国力の差は日本人の理学の軽視であると感じ、自らの専攻を物理とした。新政府側の各藩が競って留学生を送り出した結果、勉学しない学生が増加し、国費での留学に批判が出てきた。健次郎にも帰国命令がきたが、現地人が「帰国後、日本のために頑張るなら」という条件で学資の援助をした。
滞米4年、エール大学で物理学の学位を取得し帰国の途についた。思えばかっての敵である奥平、黒田そしてアメリカの人達、そして会津の多くの人に支えられての卒業であった。

 帰国した健次郎は東京大学の前身である東京開成学校の教授補として就職した。明治12年には 日本人として最初の物理学教授となった。
明治19年(1886)、帝国大学令が発布され、東京大学は東京帝国大学になった。東京帝国大学は文科大学、理科大学、医科大学、工科大学、法科大学の5つの単科大学で構成され、明治26年に40歳で理科大学長になった。
そして明治34年(1901)、健次郎48歳で東京帝国大学総長に選ばれた。朝敵の汚名を着せられた会津藩からの最高学府の総長就任はまさに異例のことであり、旧会津藩の関係者は涙を流した。
小野塚総長が弔辞を読んだ伝通院
 その後、51歳で貴族院議員、52歳で東京帝国大学総長を辞任するも、58歳で九州帝国大学初代総長、60歳で再び請われて東京帝国大学総長に復帰、61歳で京都帝国大学総長を兼任、62歳の大正4年(1915)遂に男爵となった。

 昭和6年(1931)6月、恩師である長州の奥平謙輔の書が飾ってある自宅で、健次郎は静かに眠りについた。
伝通院の葬儀では東京帝国大学総長の小野塚喜平次が弔辞を述べた。小野塚は長岡の出身で米百俵で設立された国漢学校に学び、東京帝国大学、ドイツ、フランスの留学で法律を学んだ。
最後に会津出身の健次郎を送りだしたのは、偶然にも長岡出身で共に辛酸をなめた小野塚だったのである。
会津白虎隊の勇士は77歳で青山墓地に眠る。

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