2年前のあの日から

 今年も10月23日がやってきた。中越地震で約1万7千棟の住宅が全半壊し、今も約1600世帯、5300人のが仮設住宅で暮らしている。
2年前の23日午後5時56分、この日は会社の仲間と相模湖の近くでゴルフをした帰りで、近くの駅に友達を送るためハンドルを握っていた。 今まで車を運転していて地震に気づいたことはなかったが、この時は車がゆっくりとゆれるのを感じた。そしてそのゆれ方から、昭和39年の新潟地震、平成7年の阪神大震災に匹敵する大きな地震と直感できた。まもなくラジオから震源地が新潟県の中越地方と伝わってきた。

 自宅に戻ってからテレビ報道を見ながら実家のある長岡と連絡をとったが、すでに電話回線は災害時の規制に入っていて通じるはずがなかった。震源地の近い小千谷の友達に携帯メールを入れる。「いま外に避難、怪我なし奇跡、余震大きく怖い」と直ぐに返信がきた。 そうだ非常時には携帯メールが良いんだと気づく。
そこで実家や親戚に携帯メールを入れると、返信があり無事な様子が分かりほっとする。しかし次々に大きな地震が襲っているようで心配である。ライフラインは、電気、ガス、水道、電話、道路の全てが止まり、陸の孤島になっているとのことである。
この頼みの綱の携帯メールも、翌日の朝には相手方の電池切れで通じなくなり、情報はテレビ報道に頼る以外になくなった。
妙見トンネルの先で脱線した新幹線(長岡市) 山古志村に飛び立つ自衛隊ヘリ(小千谷市)

   地震から3日後の27日には、東京消防庁のハイパーレスキューが、妙見で皆川優太ちゃんの救出する様子を1日中報道していた。長岡への道路は一部復旧しつつあるが、緊急車両以外は通行禁止である。28日になって北陸道が復旧し、長岡に一般車両が入れるという情報が入ってきた。
余震が続き危険のため、役所ではボランティアの支援を断っていたが解除されたようだ。役所と連絡を取り、確認した上で28日早朝に出発した。 もちろん寝る所、食事等は全てボランティアの自己責任であり、寝具、食料を大量に車に積み込んだ。  関越道、長野道、北陸道を経由し、長岡が目の前になる西山インターの少し前で、ハンドルを取られるような激しい地震があり、やっと再開したばかりの高速道が再び閉鎖された。西山インターで高速道から一般道に降りた。この一帯の道路はよく知っているので無事に長岡に抜けることができた。
悠久山に駐屯する自衛隊(長岡市) 悠久山にできた仮設住宅(長岡市)

 ボランティア先の避難所で、慈眼寺「会見の間」の被災を知ったのは、11月5日のことである。その1日前の新潟日報に大きく報道されたとのことであったが、避難所に新聞が置かれているはずがなく、東京からの知らせであった。翌6日早朝、 慈眼寺を訪ねると、顔見知りのご住職の奥さまが、傾いた本堂を見上げながら呆然としていた。小千谷の宝である慈眼寺を復興させましょうと励ましたが、いま考えると、この時は被害の状況から復興をあきらめていたのかも知れない。


 それ以降、報道各社により全国に発信され、11月15日には司馬遼太郎の「峠」で知られている慈眼寺の再建を望む声が、朝日新聞「天声人語」にのることになる。その後再建が決まり、12月7日にホームページ作成の支援依頼を受けることになった。
あれから2年、念願の「会見の間」も復旧し、微力ではあったが中越地震の支援ができたことに安堵感はあるが、何か重いものを慈眼寺に残してしまったような気もする。

もどる