西郷隆盛と銅像の由来(上野恩賜公園)

上野恩賜公園(上野公園)と聞けば、着流し姿で犬を連れた西郷隆盛の像が頭に浮かぶ。それほど公園と隆盛は一体化している。おりしもNHKの大河ドラマは「天地人」で、人々が失いかけた義の精神を思い起させてくれる。このひとほど私利私欲のない幕末の勝利者は少ない。薩摩藩邸を焼き討ちし、戊辰戦争の口火を切った庄内藩でも、「南州先生」と敵の指揮官に対しての評判は高いという。
最後はふるさと薩摩の城山で露と消えたが、彼は明治維新の功労者であり、また犠牲者の一人であった。
平成の世になっても、隆盛は上野の山からじっと日本の未来を見つめ、失いかけているものを呼び戻してくれる。
上野の西郷隆盛の像は、今まで数え切れないほど見てきたが、じっくりと「敬天愛人」の文字を読んだことはない。
(上野のお山から見つめる西郷隆盛の像)
西郷隆盛と銅像の由来 西郷隆盛像の後ろにある彰義隊の墓

  敬天愛人 西郷隆盛と銅像の由来
西郷隆盛は文政10年(1827年)12月7日薩摩藩士として鹿児島加冶屋町に生まれた。通称吉之助、南州はその号である。
若くして、藩主島津斉彬に重用され、幕末内外多難の際、大いに国事に奔走したが、これに関連して奄美大島に流されること2回、元治元年(1864年)許されて京都に上るや、朝廷の意を重んじて一旦は長州を敵としたが、後、木戸孝允と謀って薩長連合を結成し、慶応3年(1867年)ついに王政復古の大業を成就、その後も官軍の参謀として、大功を樹て、明治維新の基礎を確立した。
その間、高橋泥舟、勝海舟、山岡鉄舟等の請を容れて江戸城の無血開城を実現、江戸を戦火から救ったことは余りにも有名である。
その後は故郷に退隠したが、明治4年(1871年)正月、三条実美以下新政府首脳の懇請を受けて状上京、参議に昇任し、廃藩置県その他の近代国家建設のための主動的役割を果した。
然るに、明治6年6月いわゆる征韓論が閣議に上がるや断乎反対して、大使派遣による平和的修好を主張し、その決定を見るに至ったが、後欧米出張から帰国し、内治優先論を固執する岩倉具視、大久保利通等の反対に敗れて辞官帰郷、私学校を興して後進青年の育成に努めた。
明治10年2月当局者の謀に激した私学校生徒に擁せられて西南の役となり、転戦7カ月余、ついに敗れて城山に自刃した。9月24日、享年51才。
そのため一時逆賊とされたが、明治22年2月、明治天皇の特旨により賊名を除かれ、正三位を追贈された。
この銅像はこれに感激した隆盛の旧友、吉井友実が、同志と共に追慕の情を表わすべく建立を計画したものであり、御下賜金のほか有志2万5千人の醵金を得て、明治26年起工、同30年竣工、我が国彫刻界の巨匠高村高雲の作である。
西郷隆盛の偉大な功業は、その心情たる敬天愛人の至誠没我な精神に発した愛と所産であり、日本の代表的偉人として今なお、敬慕される所以は実にここに在るのである。

敬天愛人は簡単に言えば、「神を敬い、人を愛せよ」ということであるが、「南洲翁遺訓」によれば「道は天地自然の物にして、人は之れを行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふゆゑ、我を愛する心を以て人を愛する也」となる。

南洲翁遺訓の発行は、西郷に名誉が回復された明治22年以降のことであるが、なんと敵の庄内藩の関係者からの発行である。 戊辰戦争を最後まで戦った庄内藩も遂に降伏したが、西郷隆盛の指示で黒田清隆が下した処置は、会津の厳しい処置を予想した庄内藩人には意外なものであった。
降伏した庄内藩の武士の武器は取り上げず、西軍側は丸腰で庄内藩に入った。
寛大な処置に感服した庄内藩士は、その後、藩主と共に鹿児島に隆盛を訪ね教えを請うた。
その隆盛の生前の言葉や教えを集めたのが南洲翁遺訓である。薩摩からではなく、刃を交えた敵の庄内から発行されたことに、遺訓の重さがある。
もどる