栃尾が生んだ上杉謙信

 戦国の武将上杉謙信は、長岡藩領の栃尾で旗上げをした。14歳の謙信の危機を救ったのは、義に厚い栃尾の武将であった。河井継之助の尊敬した人物は、義を第一にした郷土が生んだ上杉謙信である。義のルーツを栃尾に訪ねてみる。

 謙信は享禄3年(1530)3月21日、春日山城で生まれた。生涯のライバルとなる武田信玄は謙信より9歳年長、織田信長は4歳、豊臣秀吉は6歳、徳川家康は12歳それぞれ年下である。
父は越後の守護代で春日山城主の長尾為景、母は栖吉城主長尾房景の娘虎御前である。幼名は生まれ年に因んで虎千代といった。

 14歳で元服し、平三景虎を名乗る。32歳のとき関東管領上杉憲政の養子になり、上杉政虎となり、ついで将軍足利義輝の一字を拝領し上杉輝虎となる。41歳で謙信と号し、49歳で没している。謙信には実子がなく、北条氏政の子である景虎と、一族の上田長尾政景の子である景勝を養子とした。 やがて景虎と景勝は謙信の後継をめぐり、越後を二分する御館の乱(おだてのらん)を生むことになる。
  長尾家は平氏の一族で、相模国長尾庄に住んでいたが、室町時代に関東管領の上杉氏に被官し、ともに成長した。上杉氏は越後の守護職を努めていたので、その代理として家臣の長尾氏が越後に定着し、勢力を拡大した。
 虎千代が7歳のとき為景が隠居し、晴景が家督を継いだ。為景の隠居の前後に、虎千代は坊主となって先祖の菩提を弔うようにと、菩提寺林泉寺に預けられた。その後、越後は一族を含めた内乱により乱れた。14歳のとき家臣の謀反があり、林泉寺から栃尾城の城代本庄慶秀(ほんじょうよしひで)を頼って落ち延びることになる。

 三条の長尾家が既に離反している中で、本庄は暖かく虎千代を迎え元服させた。長尾平三景虎の誕生である。元服させれば、本庄は栃尾城を虎千代に引き渡さねばならなかったし、三条長尾に宣戦布告することであった。しかし本庄は三条長尾の誘いに乗らず、不利な状況の中で義を通し、14歳の景虎の未来に賭けた。

 景虎と本庄勢は栃尾城を囲む三条長尾勢の本陣に襲い掛かった。当然籠城と考えていた三条長尾勢は緒戦で総崩れとなる。鮮やかな景虎の14歳の初陣であった。
初陣以来、景虎は数度の戦いを全て制し、越後はほぼ安定した。

 守護代晴景は越後に平穏が戻ると、弟景虎の存在をねたむようになった。折りしも越後の周りには小田原の北条氏康や甲斐の武田の影が見え始め、戦乱を乗り切るためには、家臣の心は晴景から離れ、19歳の景虎に集まりつつあった。兄弟の争いによる越後の内乱を心配した守護上杉定実は、景虎を春日山に招いた。上杉定実の斡旋と、強力な景虎の兵力の前に、兄の晴景は隠居した。
景虎は名実共に越後の守護代となった。

 景虎が23歳の天文21年(1552)、雪の中を関東管領上杉憲政が、わずかな供を従えて春日山にきた。憲政は家宝を景虎の前に並べて懇願する。由緒ある藤原鎌足以来の上杉家の系図、関東管領の綸旨、朝廷からの錦旗、そして竹に雀の上杉家家紋などである。
上杉の家名を継いで、北条を討って欲しい」。
栃尾城 謙信公(秋葉公園) 信玄(甲府駅)
 天文22年(1553)、甲斐の武田信玄に追われた信濃葛尾城主の村上義清が景虎を頼り越後に落ち延びてくる。
善光寺平に進出した景虎は、武田の軍旗を見た。うわさに聞いた無敵の風林火山と諏訪法性の旗である。長い長い川中島の戦いの始まりである。
信玄の軍旗は、
風林火山「疾如風徐如林侵掠如火不動如山」
諏訪法性「南無諏方南宮法性上下大明神」
これに対し、上杉の軍旗は、
「毘」:上杉謙信が信仰した毘沙門天
「龍」:突撃に使う軍旗
信玄の14文字、13文字の軍旗に対し、謙信の1文字は、対照的な性格の二人の武将の旗として興味深い。

 川中島の戦いは諸説があり、戦った回数も3回、5回、8回とさまざまである。ここでは一般的な5回説をとることとする。
両雄一騎打ち 躑躅が崎の館跡に建つ
武田神社(甲府市)
善光寺平の戦火を避け本尊
を移した甲斐善光寺
川中島の戦い
第1回 天文22年 1553 最初の戦闘。対陣27日で容易ならぬ相手を意識 (布施の戦い)
第2回 弘治 元年 1555 対陣4ヶ月小競り合い (犀川の戦い)
第3回 弘治 3年 1557 上野原で両軍激突 (上野原の戦い)
第4回 永禄 4年 1561 激戦。謙信・信玄の一騎打。武田信繁、軍師山本勘助戦死 (八幡原の戦い)
第5回 永禄 7年 1564 2ヶ月両軍睨み合ったが戦闘に至らず。最終戦 (塩崎の戦い)

 川中島の戦いでよく知られているのは、両雄が直接刃を交えた永禄4年の第4回合戦である。武田軍の軍師山本勘助は、妻女山の謙信を啄木鳥(きつつき)戦法で誘い出し、挟撃で一気に勝敗を決しようとした。
謙信はこの企てを事前に察知し、夜千曲川を渡り八幡原で待ち伏せた。

継之助も夜八丁沖を渡るときは、尊敬する謙信の奇襲を頭に描き、頼山陽の詩が頭によぎったことだろう。また山本勘助が長岡藩のふるさと牛久保の出身で、牧野家の家臣の養子だったことはあまり知られていない。
山本勘助が造った小諸城(懐古
園)、幕末は小諸藩牧野家
「小諸なる古城のほとり・・・」島崎藤村 山本勘助のふるさと牛久保
光輝院の牧野家の紋

不識庵の機山を撃つ図に題す

 
鞭声粛粛夜河を過る
 暁に見る千兵の大牙を擁するを
 遺恨十年一剣を磨き
 流星光底長蛇を逸す
謙信(不識庵)が信玄(機山)を撃つ絵を見ての作

 鞭の音も静かに夜半に千曲川を渡る
 暁の霧の中に数千の兵が軍旗を持って迫る
 十年の恨みで剣を磨いてきたが
 一瞬の光の中に信玄(長蛇)を撃ちもらした
頼 山陽
(らいさんよう)
江戸時代後期を代表する儒学者、詩人。儒学者の長男として安永九年(1780)大坂に生まれる。その後父は広島藩に登用され広島で育つ。18歳で江戸の昌平黌に学ぶが、21歳で脱藩し幽閉となり廃嫡される。
許された後は儒学者の道を歩む。歴史書や漢詩、書画を多数残している。

年号 西暦 年齢 謙信のできごと
享禄 3年 1530 上杉謙信誕生、父長尾為景、母は栖吉城主の娘虎御前、幼名虎千代
天文 5年 1536 林泉寺に入る、為景隠居し、謙信の兄晴景が家督相続
天文12年 1543 14 家臣の謀反で栃尾城に逃げる。元服し長尾景虎。初陣を飾る
天文17年 1548 19 兄晴景に代わり長尾家を相続。春日山城に入り越後守護代となる
天文19年 1550 21 越後守護上杉定実死去
天文21年 1552 23 関東管領上杉憲政が北條氏康に攻められ謙信に助けを請う
天文22年 1553 24 武田信玄に追われた村上義清ら北信濃の豪族が謙信に助けを請う。第一回川中島合戦。1回目の上洛、越後の守護となる
天文23年 1554 25 武田・今川・北条の三国同盟成立
弘治 元年 1555 26 第二回川中島合戦
弘治 2年 1556 27 謙信出奔。家臣の要請により春日山城に戻る
弘治 3年 1557 28 第三回川中島合戦
永禄 2年 1559 30 2回目の上洛、将軍足利義輝に拝謁、関東管領の内意を受ける
永禄 3年 1560 31 越中、関東に出陣(以降毎年のように関東出陣)
永禄 4年 1561 32 小田原の北条を攻める。鶴岡八幡宮で関東管領上杉家を相続。上杉憲政の一字を拝領上杉政虎。第四回川中島合戦。将軍足利義輝の一字拝領上杉輝虎
永禄 7年 1564 35 第五回川中島合戦
元亀 元年 1570 41 謙信を号とする
元亀 4年 1573 44 武田信玄死去、享年53歳
天正 5年 1577 48 湊川で織田信長を破る
天正 6年 1578 49 上杉謙信死去、享年49歳。後継をめぐり御館の乱勃発、景勝が勝つ

四十九年一睡夢
 一期栄華一盃酒
49年のわが生涯は一睡の夢に過ぎなかった
 この世の栄華は一杯の酒に等しい
 (上杉謙信辞世の詩)
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